第86話 鰻屋の個室にて
11月2日、月曜日。
午後7時30分――
小早川は、県警庁舎から徒歩5分ほどの場所にある鰻専門店にいた。
数週間前、真田と昼食を共にした店だ。
昼は鰻重や定食を出す店だが、夜は鰻を中心に据えた和食割烹へと趣を変える。
1人6,000円の鰻懐石コースを予約してあった。
通されたのは奥の個室だった。
床の間には掛け軸。
脇には青磁の壺。
料理屋というより、小さな料亭に近い空気がある。
小早川は席に着いたまま、何度か腕時計に目を落とした。
午後7時30分を少し回った頃、襖が開いた。
真田瑞希だった。
大きめのトランクケースを引いている。
いつもの落ち着いた表情ではあるが、呼吸はわずかに乱れていた。
「駅のタクシー乗り場が混んでいまして、少し遅れてしまいました」
真田は一礼する。
「こちらからお願いしておいて、申し訳ありません」
「いえ、そんなに待ってませんよ」
小早川は立ち上がった。
「それより――自宅には寄らず、そのまま来たんですか?」
そう言いながら、トランクケースを部屋の中へ入れるのを手伝う。
真田は小さく頷いた。
「……ええ。由良管理官からの依頼の件と、それとは別に、どうしても今日中に共有しておきたい内容がありました」
やはり急いできたのだろう。
真田の息は、まだ少しだけ上ずっていた。
小早川は無言で席を勧めた。
*
2人が木製のテーブルを挟んで向かい合うと、若い女性店員が入ってきた。
懐石コースの流れを丁寧に説明し、飲み物の注文を取る。
真田は薄めのハイボール。
小早川は芋焼酎の水割り。
飲み物が運ばれてきたところで、2人は軽くグラスを合わせた。
氷が小さく鳴る。
真田は、最初の一口だけハイボールを飲み、それからすぐ本題に入った。
「まず、由良管理官からの依頼の件です」
バッグからスマホを取り出し、画面を小早川の方へ向ける。
「宇都宮が以前、懇意にしていたラウンジ嬢の源氏名は“リリス”でした。宇都宮が福岡へ異動する前後に六本木の店を辞め、その後の消息は不明です」
真田は落ち着いた口調で続ける。
「ただ、宇都宮を追う形で福岡へ来ている可能性はあると考えています。これが、その女性の写真です」
高瀬千草から見せてもらった写真を、真田がさらに撮影したものだった。
小早川はスマホの画面を見つめる。
「……なるほど」
目を細めた。
「化粧は濃いですが、かなり整った顔立ちですね。中洲あたりに紛れていても違和感はない」
そこで一拍置く。
「ただ、普通の“店の女”という感じでもない。何か、妙に出来すぎてる印象がありますね」
その言葉には、刑事としての観察と、説明しにくい違和感の両方が混じっていた。
ちょうどその時、先付の酢の物が運ばれてくる。
小早川は箸をつけながら、さらに言った。
「由良さんの方でも、宇都宮とリリスが接触している可能性を見て“行確”を続けてるんでしょうが……」
小早川は酢の物を一口含む。
「用心深い宇都宮のことです。簡単には尻尾を掴ませないでしょうね」
真田はその言葉に小さく頷いた。
小早川が焼酎の水割りを一口飲んだのを見て、真田は再び口を開く。
「それと――こちらが本題です」
真田の表情が、一段階引き締まった。
店の空気は上質で柔らかいはずなのに、その瞬間だけ、個室の内側がわずかに張り詰めたように感じられた。
「東京で、資料課勤務時代の元上司と会いました」
真田は言う。
「以前、ほんの一度だけ目に触れた未解決事件が、ずっと頭に引っかかっていたんです。名前が思い出せなかったんですが……今回、はっきりしました」
バッグから複写資料の束を取り出し、テーブルの上に置く。
小早川が眉をひそめる。
「カスミソウ事件……?」
資料の表紙に目を落とした瞬間、彼の顔つきが変わった。
1枚、また1枚とページをめくる。
古い紙の複写越しにも、時代の匂いが残っているようだった。
絞殺。
衣服の一部の欠落。
青い風景画。
5人の被害者。
そして、事件の背後に散っている“莉莉須”の名。
「……これは」
小早川の口元から、息のように声が漏れる。
「今の事件と、生き写しじゃないですか!」
最後のページまで見終えたところで、小早川は焼酎を一気に飲み干した。
真田は短く頷く。
「そうなんです。偶然にしては、あまりにも符号が多すぎる」
そして少しだけ間を置いた。
「ですが、もっと決定的なものがあります」
今度はノートパソコンを開いた。
新幹線の中で編集した2枚の画像を表示し、小早川の方へ向ける。
1枚は東京都周辺の地図。
もう1枚は福岡市周辺の地図。
それぞれに、過去の事件と現在の事件の遺体遺棄場所が印されていた。
小早川は画面を見たまま、数秒、何も言わなかった。
やがて低く呟く。
「……サイコロの“5の目”だ」
真田は頷く。
「東京では東京帝大を中心に、福岡では晴明女子高を中心に、ほぼ同じ構図になっています」
小早川は、深く息を吐いた。
そして、ノートパソコンの画面から目を離さないまま言った。
「報告していませんでしたが、先日、城戸谷留美が母親と一緒に相談に来た時、友人が遺棄現場の形を予測していたと話していました」
小早川は苦い顔をする。
「突拍子もない話に聞こえたんで、表立っては扱わなかったんです。ただ、個人的にはずっと引っかかっていた」
「仕方ありません。私でも、同じように扱ったと思います」
真田が静かに返す。
「そう言ってもらえると、気が少し晴れます」
小早川は小さく言葉にした。
「まさか、昭和の未解決事件と同じ構図だとは思わなかった」
しばらく、2人の間に沈黙が落ちた。
その沈黙を縫うように、料理が次々と運ばれてくる。
椀物。
向付。
焼き物。
季節の高級食材を使った品々が、整然と並べられていく。
場違いなほど上等な料理だった。
だが、2人とも味わう余裕はあまりない。
真田は、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「一昨日、宇部を発つ時に、両親が餞別を持たせてくれました」
小さく言う。
「今日も私の奢りです。せっかくですから、食事は食事でちゃんと頂きましょう。そのうえで、続きを話します」
小早川は目を細めた。
それが、真田なりの区切りなのだとわかった。
私的な帰省。
由良管理官からの依頼。
東京での確認。
そして福岡へ戻ってきた今。
真田の短い“プライベート旅行”は、ここで完全に終わったのだ。
小早川は深く一礼した。
「ごちそうになります」
そう言ってから、もう一度、テーブルの上の資料へ目を落とす。
ここで整理された断片は、結局また、城戸谷留美たちが普通の顔で授業を受けている学校の方へ戻っていくしかない。
料理の湯気の向こうで、古い事件の複写が静かに白く光っていた。




