第81話 灰色の配信者
11月2日、月曜日。
午後1時半過ぎ――
東都経済新聞の記者・鐘ヶ江円香は、JR山手線・田町駅の構内を足早に歩いていた。
大阪で1泊2日の出張取材を終え、芝浦にある本社のオフィスへ戻るところだった。
それにしても、きれいな人だったな――
品川駅で偶然ぶつかった女性のことが、まだ頭の片隅に残っていた。
ほんの一瞬、肩が触れただけ。
それなのに、妙に記憶に残る顔だった。
しかし、駅構内を進むうち、それをすぐに忘れさせる光景を目にした。
東口の改札を抜けようとした時――
左手のやや離れた場所に、不動産投資家・白石翔流の姿が見えた。
ル・ブランでの取材から約3週間。
だが彼の隙のない洗練された姿は、鐘ヶ江にとっては忘れられない記憶として脳に焼き付いている。
そんな白石の後ろを、彼と同じ歩幅で歩く女性がいた。
水色のスーツ。
銀縁の眼鏡。
無駄のない足取り。
その女性が目に入った瞬間――
あれっ? 加奈子?
鐘ヶ江は思わず心の中で呟いた。
加奈子――
鐘ヶ江の中学時代からの幼馴染。姓は“葛木”。
地元・神奈川県鎌倉市で高校時代までを一緒に過ごした。
大学は2人とも東京に出てきて、お互いに就職してからも頻繁に連絡を取り合う間柄だったが――
加奈子は体調を崩して、1年近く休職中だったはずだ。
なぜ、ここに?
しかも、白石と一緒に?
記者としてより先に、友人として嫌な違和感が立った。
気がつくと鐘ヶ江は、2人の後を追っていた。
*
彼らは「なぎさ通り」沿いにあるビルの一角に姿を消した。
ここ、空き店舗のはずだけど……?
鐘ヶ江は足を止め、周囲を見回した。
たしか以前、この辺りの再開発絡みで一度通ったことがある。
店舗募集の貼り紙が出ていた記憶がある。
それなのに、白石と葛木加奈子は当然のように中へ入っていった。
2人が中に入って5分ほど経つと、鐘ヶ江は恐る恐る店舗入口のドアに手を掛けた。
鍵は……開いている。
ドアを開けて中に入ると、30畳ほどの空間が目に入った。
まだ正式に内装を入れていないのか、全体は殺風景だ。
だが、ただの空き店舗とも少し違う。
人が使っている気配だけが、どこかに残っている。
奥へ進むと、エレベーターらしきものを見つけた。
だが、稼働している様子がない。
2人は、いったいどこへ消えたのか?
鐘ヶ江は首を傾げた。
加奈子が、なぜ白石と一緒にいるのか。
その一点が、今の鐘ヶ江にとってはいちばん大きかった。
だが次の瞬間――
「ここで何をしているんですか?」
背後から低い男性の声が聞こえてきた。
鐘ヶ江は慌てて振り向く。
声の主は、サングラスをかけた長身の男だった。
チャコールグレーの長めのジャケット。
黒に近い色落ちしたジーンズ。
足元は灰色のスニーカー。
服の上からでも体格がいいとわかる。
どこかで見たことがあるような気がする。
けれど、輪郭だけが頭に残って、顔そのものがうまく掴めない。
印象だけが、どこか灰色で曖昧だった。
「も、申し訳ありません! 鍵が開いていましたので、つい……」
顔を赤らめ、狼狽しながら言う。
男は一瞬だけ鐘ヶ江を見た。
サングラス越しに放たれる視線には威圧感があるのに、声は意外なほど丁寧だった。
「ここは我々のレンタルしているオフィスです。申し訳ありませんが、お帰りいただけますか?」
我々。
その一語だけが内に残る。
“白石の個人事務所”ではない。
少なくとも、この男は白石と同じ側にいる。
そこまでが、この場ではっきりした。
鐘ヶ江は深く一礼して、その場を去った。
問い詰めたい。
でも今ここで下手に踏み込めば、何も得られなくなる。
記者としての本能が、ぎりぎりで足を止めた。
*
あの男……どこかで見たような……?
オフィスまでの帰路――
鐘ヶ江の頭の中では、その疑問がぐるぐると反芻されていた。
だがその疑問は、意外にもすぐに氷解した。
「只今戻りました――」
オフィスに戻って自席につくと、隣の同僚がパソコンで動画を閲覧している。
「お疲れ! 今度は“この人物”を取材しろって指示だぜ。うちは経済系の新聞だろ? 何でこんな胡散臭い都市伝説系の配信者に目を付けたのかね?」
その同僚は、鐘ヶ江の姿を確認するなりぼやいた。
鐘ヶ江は画面に映る男性を見て、目を丸くした。
“灰谷零央”――
都市伝説系の動画配信者で、チャンネル登録者数は海外も含めて100万人近くいる。
トレードマークのサングラス。
画面の中の顔と出立ちが、さっき空き店舗で自分を追い返したサングラスの男と重なる。
「……この人」
「知ってるのか?」
「いや……さっき、田町で見た」
鐘ヶ江は思わずそう呟いた。
灰谷零央。
白石翔流。
そして、幼馴染の葛木加奈子。
この3人が、偶然同じ場所にいるとは思えなかった。
*
午後5時――
夕日が傾き、黄昏の気配を帯び始めた頃。
灰谷が空き店舗の外に現れる。
彼はジャケットの内ポケットから、2枚の封筒を取り出し、目を落とした。
どちらの封筒にも、宛名は書かれていない。
厚みはほぼ同じ。
だが、それ以上のことは外からはわからない。
灰谷は何かを確かめるように、ほんの数秒だけその封筒を見つめた。
その目には迷いがない。
急いでいる気配もない。
やるべきことが、すでに決まっている人間の動きだった。
そして再び、それをゆっくりと内ポケットに戻した。
夕暮れの風が、長めのジャケットの裾を揺らす。
灰谷は小さく息を吐き、田町駅の方向へ歩き出した。
足取りは一定で、振り返りもしない。
そのまま、夕暮れの雑踏の中へ消えていった。




