第78話 カスミソウ事件
高瀬から一通りの話を聞いた真田は、ホテルの玄関で彼女を見送った。
高瀬の後ろ姿が視界から消えたのを確認すると、真田はスマホを手に取り、“本郷貞樹”という人物に電話をかけた。
「もしもし。たった今、終わりました。これからお伺いしてもよろしいでしょうか?」
相手から承諾が出たようだ。
通話を切ると、タクシーを拾うため品川駅のタクシー乗り場へ向かった。
真田が上京した目的は2つあった。
1つは、高瀬千草と接触すること。
もう1つは――本郷貞樹という人物と会うことだった。
*
本郷貞樹。
真田が警察庁の情報通信局情報管理課に在籍していた頃の上司。
2年前に定年を迎えて退官し、現在は東京都内の私立大学で犯罪学の教鞭を執っている。
“事件の生き字引”。
そう呼ばれていた男だ。
本郷の自宅は世田谷区の閑静な住宅街にあった。
築年数は古いが、よく手入れされた2階建ての家。
玄関先の植木鉢まで整っていて、いかにも本郷らしかった。
通された書斎も同様だった。
壁一面の本棚。
事件史、犯罪学、法医学、心理学。
背表紙の色が整然と並ぶ。
机の上には資料が几帳面に積まれ、隙がない。
真田はそこに入った瞬間、警察庁の地下資料室の匂いを思い出した。
紙とインクと、長い時間に閉じ込められていた情報の匂い。
「ちょっと早いが、まずは食事をいただこう。何かよほど重要な相談があると見たが……話はその後でもいいだろう?」
本郷が穏やかに言う。
真田は微笑んだ。
「お寿司が好きだってことを覚えていてくださったのですね。嬉しいです。では、遠慮なくいただきます」
本郷が用意してくれていたのは、近所の高級寿司店から取り寄せた折詰だった。
一貫口に入れた瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。
「ふふっ。相変わらずいい食べっぷりだ」
本郷が目を細めた。
真田は、警察庁時代に一度だけ、本郷に日本橋の寿司店でご馳走になったことを思い出していた。
あの時も、こんなふうに笑われた。
「ごちそうさまです。久々においしいお寿司をいただきました」
真田はそう言うと、一緒に出してあったお茶を口にした。
独特の香りで、口触りのいい緑茶だった。
だが、今日は懐かしさだけを味わいに来たわけではない。
真田は本郷の目をまっすぐ見ながら、淡々とした口調で話し始めた。
「実は今、福岡で女子高校生が連続して殺害される事件を追っています。被害者のもとには、殺害の数日前に“エアリアル”と名乗る人物から青い風景写真が送られてくる。その構図を考えた時、どうしても昔見た“ある事件”の資料が引っかかったんです」
続けて、核心の部分を問う。
「昔、本庁の地下の資料室で、表に出ていない過去の事件書類の整理を命じられたことがありました。その時に、“被害者の頭文字を取って呼ばれていた事件”があったと記憶しています。でも、思い出せない。本郷さんは、ご存知でしょうか?」
本郷は、真田の話を最後まで遮らずに聞いていた。
それから一度だけ、視線を宙へやった。
古い棚の奥に仕舞い込んだ何かを、記憶の中で探るみたいに。
やがて、低く言った。
「“カスミソウ事件”だな」
真田の背筋が、わずかに強張る。
「昭和の初め頃、5人の大学生が次々と変死を遂げた事件だ。彼らが殺害されたと思われる数日前に、“カスミソウ”と名乗る人物から、きれいな手描きの風景画が送られてきた――そんな話だったはずだ」
真田の全身が、一瞬冷えた。
5人の若者。
“カスミソウ”を名乗る人物。
そして送られてきた風景画。
時代は違う。
被害者の属性も違う。
それでも、あまりにも似すぎている。
「古い資料でざっと概要に目を通した程度でしたから、詳しくは知りませんでした。この事件の犯人は捕まったんですか?」
真田は鋭い視線を本郷へ向けた。
「いや……。旧華族の若い女性に容疑がかけられて身柄を確保されたらしいが、結局のところ、証拠不十分で釈放されたようだ。まあ、“家”の圧力がかかったなんて噂も当時からあったらしいがね……」
「証拠不十分……ですか?」
本郷は静かに頷いた。
「これ以上は、記憶が曖昧だ。その資料はまだ、本庁地下の“特別保管室”の中に眠っているはずだ。もっと詳しい情報を知りたいのなら、明日にでも本庁に出向いてみるといい。私の方から懇意にしている担当者に話を通しておこう。君は今休暇中だろうから、正式な閲覧というより、私の立ち会いで確認する形になるがね」
真田は、しばらく言葉を失った。
“カスミソウ事件”と“晴明女子高連続殺人事件”。
まだ“同じ”とは言えない。
けれど、“似ている”で片づけていい段階でもなかった。
「お願いします」
真田は、迷わずそう言った。
本郷は小さく頷く。
「明日の朝、霞が関で落ち合おう。私から連絡を入れておく」
真田は深く頭を下げた。
少しだけ開いたカーテンの隙間から、夕方の光が細く差していた。
明日、自分は本庁地下の特別保管室へ降りる。
封じられた過去の中に、今の事件の輪郭を探しに行く。
それだけが、静かに、もう決まっていた。




