第77話 リリス
小早川たち5班のメンバーが、宇都宮浩太郎に纏わる秘密を共有していた頃。
真田瑞希は、東京・品川のホテルラウンジで、高瀬千草という女性と向かい合っていた。
ホテルのラウンジは静かだった。
日曜日の午後らしく、家族連れも、観光客らしき人影もある。
けれど、真田の周囲だけが妙に薄い膜で切り離されているように感じられた。
テーブルの向こうに座る高瀬千草は、30代前半くらいの女だった。
派手さはない。
だが、水商売に長く身を置いてきた人間特有の、隙のなさがある。
化粧も服装も控えめなのに、逆にそれが“普通の社会人ではない”気配を浮かび上がらせていた。
真田は姿勢を正し、まずは丁寧に頭を下げた。
「本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「いえ……由良さんからお話は聞いてますから」
高瀬はそう言って、視線を少しだけ逸らした。
完全に落ち着いているわけではない。
ここへ来た時点で、覚悟は決めている。
でも、何をどこまで話すかは、まだ自分の中で見極めている。
そんな様子だった。
真田は焦らない。
ここで強く出れば、閉じる。
むしろ、相手の口が自然に開く温度を保つ方がいい。
「宇都宮浩太郎が六本木署長だった頃、頻繁に通っていたラウンジがあった――そこまでは、こちらでも把握しています」
真田は相手の目を見る。
「その店で働いていたあなたに、聞きたいことがあります」
高瀬は、テーブルの上のグラスに視線を落とした。
中の氷が、わずかに溶けて鳴る。
「宇都宮さんは、よく来てました。目立つ人でしたし、署長って肩書きもありましたから、店の中でもかなり特別扱いでした」
「店で親しくしていた女性はいましたか?」
「いました」
返答は早かった。
だが、その後に続く沈黙が少し長い。
真田はそこで追い立てない。
沈黙の向こうに、たぶん核心がある。
やがて高瀬は、小さく息を吐いた。
「……“リリス”って呼ばれてた女性です」
その名が出た瞬間、真田の胸の奥に、微かな違和感が走った。
「リリス?」
「源氏名です。本名は知りません」
高瀬は肩を竦めた。
「でも、店の中でも少し変わった人でした。男受けするタイプっていうより、何を考えてるかわからない感じで。宇都宮さんだけじゃなくて、店に来るお金持ちの男の人たちを、いつの間にか自分の空気に巻き込んでるみたいな……」
真田は黙って聞く。
言葉そのものより、高瀬がその女を思い出す時の顔色の方が気になった。
嫌悪とも畏怖ともつかない、微妙な陰りが差している。
「リリスさんの、写真とかはありますか?」
真田は丁寧に尋ねてみた。
すると高瀬はバッグの中からスマホを取り出し、画像を表示させた。
「1枚だけ。当時の店の女の子たちと撮った写真ですが」
そう言って、真田の方へ差し出す。
「たしかに……すごくきれいな方ですね。まだ同じラウンジに勤務されていらっしゃるのでしょうか?」
再度、あくまで事務的なトーンで尋ねる。
「いえ。たしか1年くらい前に辞めました。私もその直後に別のお店に移ったんで、間違いありません。今、どこにいるかは知りませんが……」
「1年前……。ちょうど宇都宮が福岡に赴任した時期と重なりますね。他にリリスさんについて、何かご存知のことはありませんか?」
高瀬はしばらく考え込んだ。
そして、ふと思い出したように顔を上げる。
「あまり親しくはなかったんで……。あっ、でもひとつだけ――」
真田は自然に前傾した。
「ちょっと固めの“昼間の仕事”をしてたみたいです。公的な場所というか、きっちりした職場勤めの人みたいな服装でした。出勤時に、たまたまお店のロッカーで会ったことがあって」
公的な場所。
きっちりした職場。
ラウンジ嬢と昼の顔。
2つの顔を持つ女。
“リリス”――
その名前が、真田の頭の奥に微かな警鐘を鳴らしていた。
ただの水商売の源氏名として片づけるには、どこか引っかかる。
しかも今の自分は、“エアリアル”という名に触れたばかりだ。
名前の中に意味が埋め込まれていても、もう不思議ではない気がしている。
「リリスさんと、宇都宮以外の客との関係で、何か気になることは?」
真田が続けると、高瀬は少し顔を曇らせた。
「……あまり言いたくないんですけど、何人か、明らかに様子がおかしくなった人がいました。執着っていうか……その人に会うためだけに来るようになって、仕事とか家庭とか、いろんなものを崩していく感じで」
真田の喉が静かに動く。
「それは、宇都宮も?」
高瀬は、即答しなかった。
「宇都宮さんは……少し違ったかもしれません。執着してるようにも見えたけど、飲み込まれてるだけじゃなくて、何かもっと別のものを共有してるような感じもありました」
共有。
その言葉だけが、妙に残った。
真田はメモを取るふりをしながら、頭の中で整理する。
リリスという女。
2つの顔。
男たちを壊していくような接し方。
そして宇都宮だけは、単なる客ではなかった気配。
真田の中では、この名前が、今追っている事件の空気と静かに触れ始めていた。
面談を終え、高瀬をホテルの玄関で見送った後も、その名だけが頭に残り続けた。
リリス。
青い写真。
エアリアル。
5音の印。
真田はスマホを取り出し、次の相手――本郷貞樹の名前を表示させた。
ここから先は、もっと古い闇に触れる。
そんな予感だけが、静かに残っていた。




