第74話 小早川からの連絡
10月31日、土曜日――
福岡県警の5班に大きな動きがあった頃――
真田瑞希は、束の間の休日に身を置いていた。
久しぶりの母親との2人の時間。
自宅の部屋や庭先の掃除を手伝い、カフェで昼食を取り、地元の商店街で買い物をする。
一見すれば、ただの帰省の1日だった。
だが、心は完全には休まらない。
昨日、宿曜神社で見た絵馬。
そこに書かれていたアルファベットの羅列。
“5音の印”。
何かが引っかかる。
胸のざわめきが、どうしても収まらない。
私服で買い物袋を提げながら歩いていても、頭の奥だけがまだ捜査の中に残っていた。
*
夕食を済ませた後、真田は浴室にいた。
湯気が天井へ上がり、鏡を曇らせていく。
浴槽の縁に置いていたスマホが鳴ったのは、ちょうど午後7時を回った頃だった。
表示は――小早川陽介。
真田はスマホをスピーカーに切り替える。
「もしもし。真田です」
「小早川です。休日は楽しんでいらっしゃいますか? あれっ? やけに声が響きますが」
「お風呂に入ってるんです」
「おっと……これは失礼しました。改めてかけ直しますので――」
「大丈夫です」
真田はすぐに言った。
「浴室なんで、かえって家族の目が気になりません。このまま続けてください――」
少し間が空いた後、小早川の声が戻ってくる。
「電話の趣旨はあくまでプライベートの近況伺いですが、今からうっかり“業務報告”をします」
真田は湯気の中で、小さく笑った。
「うっかり……どうぞ」
だが、その一言の奥で、すでに身体は少し緊張していた。
小早川が“今”連絡してくる時点で、軽い話ではない。
「2つ。1つは、今朝城戸谷留美という晴明女子高に通う生徒が、“例のメール”が送られてきたと母親同伴で相談に来ました」
「城戸谷……留美?」
真田の眉が動く。
「あっ、たしか前に事情聴取をした子ですね」
「ええ。真田さんが“何か隠している”と疑っていた子です。やはり、隠していました。2番目の被害者・三田村安奈に“例のメール”が送られてきたことを知っていたみたいです。証言を拒んだ理由は、自分のスマホを調べられそうになるのが怖かったからだそうです」
真田は小さく息を吐いた。
思春期の少女の心理。
守りたい秘密。
そこへ警察が踏み込もうとしたことへの抵抗。
理解できなかったわけではない。
だが、あの時の自分は“事件を追う側”の論理が先に立ちすぎていたのかもしれない。
後悔が、湯の表面を撫でるように、胸に一度だけ触れた。
浴室の中に一瞬、湯の音だけが残る。
そして、小早川の声が再び続いた。
「――もう1つ」
真田は、言葉を待つ。
「広域の由良管理官と接触しました。彼から真田さんに依頼がありました。東京に行ってほしいと――」
真田は目を見開いた。
「理由は?」
短く問う。
すると、小早川の声が一段低くなった。
「“ある人物”に連絡を取り、接触してもらいたいそうです。理由は、宇都宮の“闇”を暴く重要な証言を引き出すためだそうです。由良管理官が先方には事前に話を通してあります。真田さんは“休暇中の私的接触”という形で動いてほしい、とのことでした」
真田の指先が、浴槽の縁で止まる。
「続けてください」
「真田さんや5班のメンバーとだけは、情報共有の許可が出ています。由良管理官によると、宇都宮は――」
小早川の報告は、その後も続いた。
六本木。
高級ラウンジ。
不審死。
自殺扱い。
宇都宮。
真田は、湯に揺られながらスマホの向こうの話に耳を傾けた。
湯の温度は低めに設定しているはずなのに、顔から細かな汗が滲んでくる。
点と点が、まだ線ではない。
それでも、線になろうとしている気配だけはあった。
「……信じられない」
報告を聞き終えた真田は、ようやくそう呟いた。
だが、その一言のすぐ後で、自分の中の別の回路が動き始めるのを感じた。
城戸谷留美に“例のメール”が届いた。
昨日、自分が聞いた“5音の印”。
そして今、小早川が伝えてきた宇都宮の闇。
全部が別件のようでいて、どこかで触れている気がする。
湯気に包まれた浴室の中で、真田の目だけが、もう休暇の顔ではなくなっていた。




