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第73話 由良の依頼

昼過ぎ――


安山と清水が執務室へ戻ってきた。


2人が撮ってきた写真を確認した小早川は、無言で目を細めた。


再開発で周囲の建物こそ多少変わっていたが、ベランダから見下ろす角度と奥行きは、青い写真とほぼ一致している。


つまり、あの不気味な画像は、かつてのT塾から撮影された可能性がさらに高まったということだ。


小早川は写真を机の上に置いたまま、しばらく動かなかった。


T塾。

青い写真。

城戸谷留美。

そして今朝の接触。


午後5時――


紙片に書かれた時刻が、頭の奥でずっと引っかかっていた。


由良敏景。

警察庁の広域管理官。


厄介だ。


その直感だけは、最初から変わらない。


今の自分たちに必要なのは、晴明女子の連続殺人の突破口だ。

別件に足を取られている余裕なんてない。


だが、そう簡単に無視するわけにもいかない。


選べるようで、選べない。


そういう状況が、小早川は昔から嫌いだった。


「どうしました?」


清水が訊く。


小早川は写真から目を上げないまま言った。


「……ちょっと、別件で呼ばれてる」


「別件?」


「夕方になればわかる」


それ以上は言わなかった。


まだ、自分の中でも受け切れていない。



そして、その事実を胸に抱えたまま――午後5時。


小早川は、由良から指定された場所へ向かった。


博多区筑紫通沿いにあるマンスリーマンション。


表向きは、どこにでもある短期滞在用の建物だ。

だが、今日の小早川には、それが妙に無機質に見えた。


エレベーターで5階へ上がる。

廊下のいちばん奥、510号室。


ドアの前に立つと、無意識に呼吸が浅くなる。


警戒している。

それを自分でもはっきり感じた。


軽く2回ノックする。


「どちらさまでしょうか?」


インターホン越しの声。


この時間に来るのが誰か、由良にはわかっているはずだ。

それでも確認してくる。


つまり、この会話自体が見られては困る類のものなのだ。


「県警の小早川です」


数秒後、ロックが外れる音がした。


ドアが開く。


由良はまず外の通路を確認し、それから小早川を中へ招き入れた。


2LDKの間取り。


整いすぎた部屋だった。

生活の匂いがほとんどしない。


備え付けの家具以外で目に入ったのは、隣室脇のトランクケースだけだった。


「お手間を取らせました。よろしければ」


由良は缶コーヒーを勧めた。


小早川はテーブルを挟んで座り、由良を正面から見た。


端正な顔立ち。

無駄のない動き。

だが目つきは鋭い。


“キャリア”の匂いが強い男だった。


「早速ですが、私に協力を仰ぎたいとは?」


小早川は缶コーヒーの蓋を開け、一口だけ含んでから口を開いた。


「宇都宮浩太郎警視正――ご存知ですよね?」


その名が出た瞬間、小早川の喉仏が動いた。


「今起こってる女子高生連続殺人の捜査責任者です。彼が、いったい何か?」


由良は、まっすぐ小早川を見返した。


「厄介な問題があります。極秘裏に証拠を掴みたい」


小早川は缶を置く。


「なぜ、私に?」


「真田くんの推薦です」


短い返答だった。


「彼女とは前の職場で上司と部下の間柄でした。それなりの信頼関係はある」


真田。


その名前が出たことで、小早川の警戒は少しだけ質を変えた。


完全に信用するわけではない。

だが、無視もできない。


「真田さんは知ってるんですね? いつこのことを話したんですか?」


「彼女が“休暇”に入る直前、県警で見かけて声をかけました。こちらとしても接触の機会を窺っていたところです。ただ、彼女も具体的な内容までは知りません」


由良は淡々と答える。


小早川は缶コーヒーを半分近く飲み干した。

それでも喉の渇きは消えない。


「その“厄介な問題”とやらの具体的な内容は?」


由良は、わずかに間を置いてから言った。


「協力すると確約していただけるのであれば、教えます」


その一言に、小早川は内心で舌打ちした。


嫌なやり方だ。

だが、それだけの慎重さが必要な話だということでもある。


「今はご存知の通り、女子高生連続殺人事件の捜査で忙しい。別の案件を並走させるほど、暇じゃないんでね」


本音だった。

今の5班には、1時間だって惜しい。


「もしその内容が、今回の連続殺人事件に少なからず関連している可能性があると言ったら?」


小早川の眉が大きく動いた。


宇都宮浩太郎。

晴明女子連続殺人。


この2つがどう結びつく?


「……わかりました」


小早川は言った。

声は思った以上に低かった。


「ただ、本件は上司である真田とも共有させてもらいます。それに直接的な捜査のパートナーである同じ班の連中も同様です。彼らは信用できる刑事たちです。それでも構いませんか?」


由良は頷いた。


「構いません。ただし、情報共有は最小限に」


「わかりました。では、協力しましょう。教えてください。宇都宮には、いったい何があるんですか?」


その返答を聞いた瞬間、由良の目つきが変わった。


少しだけ、仕事の顔になる。


そして語られた宇都宮の“闇”。


六本木署長時代。

高級ラウンジ。

2件の不審死。

自殺扱い。

消えない違和感。


小早川は、途中で缶を持つ手を止めた。


これはただの不祥事ではない。


人が死んでいる。

しかも、それが今の事件の裏に触れているかもしれない。


「……それ、本当なんですか?」


思わず漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。



壁のデジタル時計が17時30分を表示する頃――


由良は、ふと口を開いた。


「最後に、ひとつ。あなたは真田くんと情報を共有すると言いましたが、彼女は休暇中だ。どうやって連絡を取るつもりですか?」


口元は、わずかに緩んでいた。


試されているのか。

それとも確認されているのか。


「さあ……由良管理官ほどのお方に、わざわざご説明するまでもないかと」


小早川は皮肉を返す。


由良は小さく笑った。


「彼女は今“フリー”だ。もし彼女と連絡が取れるようなら、これから話す内容を伝えてください――」


話は、そこで終わらなかった。


小早川は部屋を出た後もしばらく、エレベーターの中で無言だった。


宇都宮の内偵。

警察庁の極秘案件。

真田との共有。


そして、それが今回の連続殺人にも触れているかもしれないという話。


受けてしまった。


そう思った。


県警の外へ出ると、夕方の空気が冷たかった。


だが、小早川の胸の内は、それ以上に冷えていた。


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