第72話 接触
執務室に戻った小早川と清水は、それぞれの席に着いた。
中には、安山潤一郎が残っていた。
須賀修一と矢野一哉は、外へ出ているらしい。
まだ午前中だというのに、部屋の空気はもう重かった。
昨夜から張り詰めたままのものが、誰の肩にも少しずつ積もっている。
「ヤスさん、あの風景の場所がわかりましたよ」
小早川は安山へ歩み寄り、低い声で言った。
「大手柄じゃないか。で、どこだったんだ?」
安山が椅子ごと身体を向ける。
「先ほど面会した城戸谷留美の証言です。T塾のベランダから見える風景だと」
安山の目が大きくなった。
「マジかよ? 俺は現地に聞き込みに行ったぜ。建物はリフォームされて、今は税理士事務所になってたけどな」
小早川は頷く。
「あの辺りは再開発も進んでます。景色が多少変わっていても不思議じゃありません」
安山は短く息を吐いた。
「なるほどな……」
小早川は続ける。
「ヤスさん、清水と一緒にもう一度現地に出向いて、近い角度から写真を撮ってきてもらえますか?」
「おうよ」
即答だった。
迷いのない返事だった。
こういう時、この男は強い。
コートを取り、清水を促す。
2人の背中が執務室から消えた。
*
部屋に残ったのは、小早川だけだった。
T塾のベランダ。
そこから見える風景。
城戸谷留美のもとに届いた、あの青い写真。
ここまではいい。
だが、そこから先がまだ足りない。
足りないまま、次の水曜日だけが近づいてくる。
焦りが、腹の底で静かに熱を持っていた。
その時――
ノックはなかった。
背後に、気配だけが差した。
小早川が振り向いた瞬間、すぐ後ろに1人の男が立っていた。
長身に、ノーネクタイのスーツ姿。
気配が薄い。
目に入った時には、すでにそこにいたような距離だった。
「小早川さんですね?」
低い声。
小早川は驚きのあまり、半歩だけ後ずさった。
「な、何だ、あんたは?」
男は淡々と名刺を差し出した。
警察庁広域課
管理官 由良敏景
その肩書を見た瞬間、小早川の喉が動いた。
「警察庁の広域?」
由良は、すぐに「しっ」と短く呟いた。
右手の人差し指を唇の前に立て、周囲を一瞥する。
「あなたと直接お話ししたいことがあります。ここでは、ちょっと……」
声量を落とす。
「午後5時。こちらへ」
そう言って、小さな紙片を小早川の手に滑り込ませた。
「内々で、協力をお願いしたい」
それだけを残して、由良は来た時と同じように静かに執務室を出ていった。
“広域”。
なぜ広域が、今このタイミングで?
小早川は渡された紙片を見下ろした。
指先に、じっとりと汗が滲んでいる。
今、自分は晴明女子の連続殺人を追っている。
そこへ警察庁の管理官が、極秘の接触。
偶然で済ませるには、出来すぎていた。
小早川は紙片を折りたたみ、内ポケットへしまった。
午後5時。
その時間だけが、重く残った。




