第68話 5音の印
真田は陽菜を連れて社務所まで戻った。
受付に座っていた若い巫女に声をかける。
「すみません。神主さんとお話ししたいんですが、いらっしゃいますか?」
自分でも、声が少し前のめりだとわかった。
あの絵馬の文字が目に入ってから、心が妙にざわついている。
「どちらさまでしょうか?」
巫女は受付越しに真田を見上げ、怪訝そうに声を出した。
「“真田”と伝えていただければ、覚えていらっしゃるかもしれません。よろしくお願いします」
真田はそう言って、軽く頭を下げた。
父がかつて氏子代表として神社の行事に顔を出していた時期がある。
当時から神主が変わっていなければ、“真田”という苗字には心当たりがあるはずだった。
「しばらくお待ちください」
巫女は立ち上がり、社務所の奥へ進んでいく。
しばらくすると、社務所の玄関から70代くらいの恰幅のいい男性が現れた。
白い浄衣を着こなし、堂々とした雰囲気だ。
「おや? もしかして真田さんのところの?」
「はい。真田修平の娘です」
神主は、いかつい印象に反して、声は柔らかかった。
「立派になられましたな。昔よく足を運ばれていたのは中学校くらいの時でしたかね」
「ご無沙汰しております。今ちょうど帰省しておりまして、姪っ子を連れて久しぶりに“大祭休日”に来てみました」
そこで真田は一拍置いた。
「ところで――先ほど“別院”横の大木で、変な絵馬を見たんです。あれって、いったい?」
神主の表情が、わずかに変わる。
「……たまに質問する方がいらっしゃるんですよ。あちらで座ってお話ししましょう」
神主の右手が示した先は、コの字にベンチが設けられた東屋だった。
*
真田と陽菜は、神主と向かい合わせに腰を下ろした。
遠くに周防灘を一望できる場所。
水平線が、快晴の空の青に溶けていた。
「さっきの質問ですが、あれは“5音の印”と言われるものです」
真田は目を丸くした。
“5音の印”。
生まれて初めて聞く名称だ。
神主は続ける。
「たとえば、あなたが誰かの持ち物を手に入れたいと仮定しましょう。能力や長所といった無形のものでもいい。まずは、それを“5人”見つける」
その言葉に、真田の胸の奥がわずかに引っかかった。
5人。
神主はまだ気づかず、穏やかに続ける。
「次に、その5人の名前をアルファベットにして、最初の音となる子音と母音の組み合わせを拾うんです。最初の音が母音だけで成立する場合は、そのまま一音として扱う」
会話の内容が難しいからか、陽菜は小さくあくびをして、周防灘の景色に目をやっている。
だが真田は身を乗り出し、神主の話に耳を傾けていた。
「わかりにくいので、ひとつ例を挙げましょう。もしあなたが“一郎”“二郎”“三郎”“四郎”“五郎”という人物から何かを欲していたとします」
一郎――ICHIROU
二郎――JIROU
三郎――SABUROU
四郎――SHIROU
五郎――GOROU
真田はポケットからスマホを取り出し、神主の話を聞きながらメモ帳に書き込んでいく。
I‐JI‐SA‐SHI‐GO
その並びが画面に浮かんだ瞬間、胸の中で何かが微かに噛み合った。
あの奇妙な文字の羅列は、誰かの名前の音の並びだった――
胸に引っかかっていた疑問が、ひとつ解ける。
だが同時に、別のものが立ち上がる。
5人。
音。
並び。
印。
それは、ただの知識として聞き流すには、今の自分には不穏すぎた。
「これって、この地方独特の風習なんでしょうか?」
真田が問う。
「亡くなった先代から聞いた話では、全国的に“知る人ぞ知る”密教的な儀式らしいです。ネットで検索しても一切出てきません。都市伝説みたいなものですが、今でもそれを絵馬にしている人がいるのには、正直驚いています」
神主は穏やかにそう答えた。
だが真田の意識は、もう別のところへ引っ張られていた。
5人。
その数が、妙に刺さる。
まだ明確な形にはならない。
なのに、いま自分が追っている事件のどこかと、この“5音の印”が触れ合っている気がしてならなかった。
青い空。
周防灘。
秋の神社。
本来なら、穏やかなはずの景色だ。
「瑞希姉ちゃん、難しい話、終わった?」
陽菜の声で我に返る。
「あ、ごめん」
真田は小さく笑った。
だが、その笑顔はもう完全にはプライベートの顔ではなかった。
東屋から立ち上がる。
ポケットのスマホが、やけに重く感じられた。
さっきまでの自分は、実家へ帰ってきた娘で、姪を神社へ連れてきた伯母だった。
けれど今は違う。
真田は一度だけ、周防灘の青を見つめた。
その後で視線を落とした時の目は、もう次に何を確かめるべきかを考え始めていた。




