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第66話 真田の帰省

10月30日、金曜日――


真田瑞希の姿は、山口県宇部市の実家にあった。


新山口駅からタクシーで約20分。

市内の住宅街の一角にある一軒家。


ここで真田は、高校時代までを過ごした。


実家へ着いたのは、前日の29日午後5時前。


疲労が限界に近かった彼女は、帰るなり2階の空き部屋へ上がり、そのまま半日以上眠り続けた。


母親が何か声をかけた気もする。

だが、その内容すら曖昧だった。


夕食も取らず、一度も目を覚まさなかった。


そんな真田がようやく目を覚まし、1階のリビングへ下りたのは、すでに午前8時を回った頃だった。


「おはよう。昨夜はずいぶんよく寝てたみたいね。よっぽど疲れてたんでしょ? 起こさなかったわよ」


炊事場で朝食の支度をしていたのは、母・郷子だ。


昔から淡々とした性格だったが、真田はそこが気に入っていた。


「帰ってたのか……」


口数の少ない父・修平は、読んでいた新聞を少し下げ、真田の方を一瞥しただけだった。


両親とも元中学教師。

父は定年後、今は市の教育委員会で臨時の仕事をしている。

母は家での時間を楽しんでいるらしい。


「さあ、そこに座りなさい。あなたの好きな肉じゃがを作ったよ」


母がそう言って、食卓へ皿を並べる。


「母さんの肉じゃが、久しぶりだね。味付けは濃くしないでよ」


「はいはい。何年あなたの母親をやってると思ってるの」


その返しに、真田は少しだけ笑った。


鮭の切り身。

卵焼き。

漬物。

味噌汁。


少なめの白米に、多めの肉じゃが。


父親の方は、ほとんど食べ終えていた。

味噌汁だけが、わずかにお椀の中に残っている。


「今、結構大変なの? 体だけは壊さないようにね」


母の言葉は短い。

けれど、それで十分だった。


「……ごちそうさま」


父は新聞を畳んで近くの台へ置くと、落ち着いた声で言って、続けた。


「母さんの言う通り、無理だけはするな。じゃあ、行ってくる」


立ち上がり、リビングを出ていく。

しばらくして、玄関のドアが開いて閉まる音がした。


「ふふふ。父さん、ああ見えて喜んでると思うよ。久しぶりに娘が帰ってきたんだから」


父の気配が消えたのを見計らって、母が小さく言った。


「相変わらずだね、父さん」


真田も苦笑しながら呟いた。


久しぶりの実家。

母の肉じゃが。

父の不器用な一言。


警察庁へ入る前。

県警に配属される前。

もっと言えば、“連続殺人”なんて言葉が自分の日常に入り込む前の時間が、少しだけ戻ってくるようだった。


なのに、完全には戻れない。


肉じゃがの湯気の向こうに、中林梓沙の遺体が一瞬だけ重なる。


きれいに置かれた、梓沙の遺体。


眠ったくらいで、あの違和感は消えていなかった。


「ところで、そろそろかな?」


「何が?」


「詩織さんが、陽菜ちゃん連れてくるんだよ」


詩織とは、真田の年子の弟・遥人の妻。

陽菜は、その娘だ。


遥人は実家から徒歩10分の場所に住み、市内の会社で働いている。


「えっ? 陽菜ちゃん、学校じゃないの? 今日は平日だよ?」


そう言って、真田は思わず目を丸くした。


「あらら。完全に忘れてるわね。今日は10月最後の金曜日でしょ?」


「あっ……もしかして“大祭休日”だっけ? まだ続いてたんだ」


“大祭休日”――

この地域の氏神様を祝う行事で、10月の最終金曜日だけ、地域内の小中学校は臨時休校になる。


真田が子どもの頃から、ずっと続いている風習だった。


そんな日に自分が帰ってきている。


ただの偶然だ。

そう思いながらも、今の真田は、こういう符合に少しだけ意味を探してしまう。



朝食を終えた頃、玄関のチャイムが鳴った。


母が出る。

しばらくして、義理の妹・詩織と、姪の陽菜を連れて戻ってきた。


「あっ、お義姉さん、お久しぶりです。帰ってらっしゃったんですね」


「詩織さん、お久しぶり。遥人がいつもお世話になって」


「瑞希姉ちゃん、久しぶりー」


「陽菜ちゃん? 大きくなったねえ!」


義理の妹と姪、そして母親。


年齢は違えど、立派な“女子会”だ。


リビングのソファへ移動し、いろいろな話で盛り上がった。


真田にとっては、殺伐とした警察の空間から解放された穏やかな時間だった。


誰も、宇都宮の名も、4人目の遺体も、青い写真も口にしない。


そのことがありがたくて、同時に少しだけ落ち着かなかった。


自分だけが、まだ仕事の気配を引きずっている。



30分ほど談笑した頃、姪の陽菜が真田に向かって口を開いた。


「ねえ、瑞希姉ちゃん。後で“宿曜神社”に連れてってよ」


“宿曜神社”は、ここから15分ほど歩いた先にある神社だ。


高台にあり、遠くに周防灘を望む、地域の神社群の総元締めでもある。


地元の小中学生の大半は、この“大祭休日”にそこへ顔を出す。

真田も、子どもの頃はそうだった。


「本当は私が連れていきたいんですけど、あいにく10時からスーパーのパートがあって」


詩織が困ったように笑う。


「私も行きたいんだけど、最近腰を悪くしてね……あそこって坂道が続くでしょ? 瑞希、お願いできない?」


母もそう言って、少し申し訳なさそうに真田を見た。


だが、真田は嫌じゃなかった。


かわいい姪と久しぶりに出かけられる。

半日近く眠ったおかげで、体力もだいぶ戻っていた。


不本意だったとはいえ、せっかくの休暇だ。


今日くらいは、刑事の仮面を外してもいい。


「よし! お姉ちゃんと行こう!」


真田は笑顔でそう答えた。


だがその笑顔の奥でさえ、胸のどこかでは昨夜までの違和感がまだ静かに息をしていた。


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