第65話 留美と青
しばらく、誰も口を開かなかった。
さっきまで机の上に置かれていた地図が、今はまるで別のものに見える。
発見現場を結んだ線が、ただの図形ではなく、学校そのものに噛みついているみたいだった。
留美は、自分の胸元にある校章を無意識に押さえた。
刺繡の感触が、指先にじわりと伝わる。
毎日身に着けているもののはずなのに、こんなふうに意識したことはなかった。
今は、その形そのものが不気味だった。
「……今まで気づかなかったよ」
奈緒が、ぽつりと言った。
視線はまだ地図の上に落ちたままだ。
「香里奈、よく思いついたよね」
香里奈は、小さく肩を竦めた。
「思いついたというか……全体の配置が妙に揃いすぎてる感じがして。それで気づいたんです。うちの学校の校章の形に似てるんじゃないかって」
その言葉に、留美の背中がまた冷える。
揃いすぎている。
似ている。
その表現が、たまらなく嫌だった。
「じゃあ、まだ終わってないってことかな……?」
奈緒が、半分独り言みたいに言う。
「どういう意味? まだ事件が続くってこと?」
留美は思わず聞き返した。
表情を曇らせた奈緒に代わって、香里奈が静かに口を開いた。
「飛躍した推測かもしれません。でも、犯人がこの形を意識して遺体を置いているなら、ただ殺して終わりじゃなくて、“形を作ること”自体に意味があるのかもしれません」
そこまで聞いて、留美の呼吸が浅くなる。
梓沙は、これに気づいていたのだろうか。
怖がっていただけじゃなく、ここへ近づこうとしていたのだろうか。
「……梓沙、これに気づいてたのかな?」
ようやく、それだけ言えた。
奈緒は、すぐには頷かなかった。
少しだけ目を伏せ、それから静かに言う。
「わからない。でも少なくとも、そこへ近づこうとはしてたと思う」
その答えは断定じゃない。
でも、留美には十分だった。
バッグの中のスマホに残ったままの、隼人からのメールがふと気になった。
部室に入る少し前に届いていたものだった。
《話したいことがある。今夜、少しでも会えない?》
本当なら、すぐに返すつもりだった。
けれど梓沙のことと、今ここで聞かされている話のせいで、頭の中はもうそれどころではなかった。
――後で返そう。
そう思ったまま、今は画面を見る気にもなれなかった。
「ここまでの共通点を整理すると、うちの学校のT塾出身者が狙われてるような気がするの。留美も気をつけて――」
奈緒がそう言いかけた時、留美のバッグの中でスマホが震えた。
ブブッ。
短い音。
部室の全員が、一瞬だけそちらを見る。
留美は「ごめん」と小さく言ってバッグを開いた。
画面には、見覚えのないアドレスからの新着メッセージが表示されていた。
件名はない。
差出人名もない。
嫌な感じがした。
それは理屈ではなく、もう反射に近かった。
親指が、少しだけ止まる。
でも、開かない方が怖い気がした。
本文は短い。
《はじめまして。エアリアルと申します》
「……何、これ」
留美の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「どうしたの?」
奈緒が尋ねる。
だが留美は、その問いにすぐ答えられなかった。
本文には、画像が1枚添付されていた。
留美は、ゆっくりとそれを開いた。
画面いっぱいに広がったのは、青い写真だった。
ただの風景写真のはずなのに、色が異様だった。
青が濃すぎる。
空気の温度だけを削ぎ落として、その代わりに冷たい気配を塗り込めたみたいな青。
見た瞬間、指先が冷えた。
喉の奥が強張る。
「留美?」
奈緒の声が、少しだけ強くなる。
留美は、写真から目を離せないまま言った。
「……わかんない。でも、すごく嫌」
その一言がやっとだった。
自分でも理由を説明できない。
ただ、見てはいけないものを見てしまった感覚だけがある。
「見せてください」
香里奈が静かに言う。
留美は、震える手でスマホをテーブルの上に置いた。
部員たちが身を寄せる。
さっきまでの地図とは別の意味で、部室の空気が張り詰める。
留美は、スマホから目を離せなかった。
梓沙が見ていたもの。
梓沙が怖がっていたもの。
その入口が、今度は自分の目の前に開いているような気がした。
部室の窓の外では、夕方の光がゆっくりと薄れていく。
青い写真の色だけが、画面の中で不自然なくらい鮮やかに浮いていた。




