第61話 アオ
10月29日、木曜日。
夕方――
5班の執務室には、小早川陽介だけが残っていた。
窓のブラインドの隙間から、橙色の夕陽が斜めに差し込んでいる。
光の筋の中で、細かな埃がゆっくりと舞っていた。
いつもなら、誰かしらの声が飛び交う時間帯だ。
軽口も、愚痴も、資料をめくる音もある。
だが今は、やけに静かだった。
真田の不在が、目に見えない空洞みたいに部屋に広がっている。
小早川は立ち上がり、ブラインドを少し開けた。
下を見ると、マスコミの一団が建物に吸い込まれていくのが見えた。
午後5時から、宇都宮の記者会見が始まる。
あの男はまた、何食わぬ顔で頭を下げるのだろう。
ふと、真田が今朝見せた表情が脳裏をよぎった。
あれは疲労だけの顔ではなかった。
外された人間の顔だった。
胸の奥が、また鈍くざらつく。
「小早川さん、いますか?」
ドアが開き、曽我稔彦が顔を出した。
「真田さんが休暇を取らされたって……上は何を考えているんでしょうね?」
曽我の声は、いつもの落ち着いた調子を保とうとしていた。
だが、その奥には苛立ちがあった。
小早川は振り返らない。
曽我が中へ入り、静かにドアを閉めた。
「ヤスさんが、もう動いてます。原点に戻って、被害者周辺を洗ってるそうです」
そこで小早川が、ようやく口を開いた。
「……そうか。で、おまえは?」
曽我は一瞬だけためらった。
「例の復元作業ですが……正直、暗礁に乗り上げています」
小早川が、ゆっくりと振り向く。
「復元だけじゃありません。マルウェアの解析も進めています。ただ……こっちもかなり厄介です」
「つまり?」
「前職の先輩に相談しました。その道の“プロ”を紹介してもらえることになりました」
「おまえじゃ手に負えないのか?」
率直な問いだった。
曽我は少しだけ悔しそうに笑った。
「僕も粘りました。でも、もう僕だけで抱える段階じゃないです」
それで十分だった。
原口和人では終わらなかった。
4人目まで出た。
今は、手札の小ささを見栄で隠している場合じゃない。
「信用できるのか?」
「その先輩は何度も捜査協力をお願いしている人です。まず間違いありません」
曽我の返答には迷いがない。
小早川は、曽我の肩を軽く叩いた。
「なら、賭けてみるか」
曽我の表情が、わずかに明るくなる。
「午後5時に会う約束を取り付けています。少し風変わりな人物らしいんですが……仲間内では“アオさん”と呼ばれているそうです」
「……アオ?」
一瞬、空気が止まった。
青い写真。
青。
偶然だと頭では理解している。
だが、引っかかる。
今の自分たちは、ちょっとした符合にも神経が過敏になっているのかもしれない。
それでも、その名を聞いた瞬間に胸の奥がざわついたのは事実だった。
「ちょうどいい。宇都宮の会見と同じ建物にいなくて済む」
小早川は時計を見た。
午後4時20分。
「電車で20分ほどです。十分間に合います」
「よし、行くぞ」
即答だった。
もう“相手が風変わりかどうか”を気にしている余裕はない。
突破口になるなら、どんな相手でも頼るしかない。
*
博多駅の博多口。
夕方の人波が押し寄せる。
会社員、学生、旅行者、買い物帰りの人々。
人の流れに押されるようにして、2人は駅近くの雑居ビルへ向かった。
待ち合わせ場所は、ネットカフェだった。
「本当にここか?」
小早川は怪訝な顔をする。
「間違いありません。4階4号室です」
自動ドアが開く。
エレベーターで4階へ上がる。
左右に5室ずつ、計10室。
指定の4号室の前で、曽我が足を止めた。
コンコン。
「どうぞ」
低い男の声。
曽我がドアを開ける。
中は、無機質な白い蛍光灯に照らされていた。
コーヒーと消臭剤の匂いが混ざっている。
奥には、銀色の長髪を後ろで束ねた男が座っていた。
高速でキーボードを叩き、画面の上では英数字が止まることなく流れ続けている。
「県警の曽我です。松下さんの紹介で参りました。アオさん、ですよね?」
「聞いています。そこに置いてください」
振り向かない。
曽我がハードディスクを机に置いた。
「どのくらい時間がかかりますか?」
「3時間あれば十分です」
「えっ?」
曽我が目を見開く。
小早川も、わずかに眉を寄せた。
「信用できるのか?」
小声だった。
だが男の耳は、それを逃さなかった。
「誇張ではありません。ただし、成果物の受け渡しはここだけ。週3回、火曜日と木曜日と土曜日の、この時間帯だけと決めています」
淡々と続ける。
「ですから、お渡しは明後日の土曜日、この時間になります」
「3時間ならここで待つ」
小早川の返答は早かった。
「気が散ります」
「3時間後に戻る」
「同じことです」
冷たい拒絶だった。
小早川の表情が、わずかに険しくなる。
「明日にはならないか?」
その声に、焦りが混じった。
4人目が出た。
真田は外された。
それなのに明後日まで待てという。
遅すぎる――その感覚が抑えきれなかった。
男は、一瞬だけキーボードを打つ手を止めた。
紙に何かを書きつける。
振り向かないまま、手だけを差し出した。
「明日9時。そこへ来てください」
「ここじゃないのか?」
「私の“本業”の職場です」
静かな声。
だが、わずかに笑みが混じった気配があった。
小早川は紙を受け取り、視線を落とす。
そこに書かれていた場所を見て、一瞬だけ眉が動いた。
「わかりました。9時に」
個室を出る。
ドアが閉まった。
廊下の蛍光灯が、やけに明るく感じられた。
「……ただのハッカーじゃねえな」
小早川が呟く。
曽我は小さく頷いた。
「ええ。間違いなく、只者じゃありません」
博多駅の喧騒が戻る。
“アオ”。
偶然か。
それとも――。
だが今は、それを考え込むより先に縋るしかない。
明日9時。
その場所が、次の扉になる。




