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第60話 由良敏景

真田が休暇の手続きを終え、県警本部の玄関口を出ようとした、その時だった。


「真田? ……真田じゃないか?」


背後から、聞き覚えのある男性の声が響いた。


足を止めた真田の背筋に、わずかな緊張が走る。


ゆっくりと振り返る。


高級な紺色のスーツ。

光沢のあるシルバーのネクタイには、細かな刺繍が施されている。


端正な顔立ちに、落ち着いた笑み。


由良敏景だった。


「ゆ、由良さん? どうして福岡に?」


思わず声が裏返る。


由良は、真田と同じ“キャリア”。

しかも6期上の先輩であり、かつて警察庁で直属の上司だった人物だ。


「久しぶりだな」


目を細める。


「去年、福岡県警に異動になったのは聞いていた。だが、こんな形で再会するとは思わなかったよ」


偶然――と言い切るには、由良の立ち方は落ち着きすぎていた。


まるで、真田がここを通ることを知っていたみたいに。


「由良さん、たしか広域の管理官に?」


「ああ」


短い肯定。


「どうして、うちの県警に?」


由良は一瞬、周囲を見渡した。


警戒の動作。

その仕草だけで、只事ではないと察する。


「昨日の最終便で東京を立った。今朝、本部長と面会してきたところだ」


声を落とす。


「真田、少し時間はあるか?」


真田は一瞬、腕時計に目をやった。


「今日から休暇で……午後から山口の実家へ向かう予定です。少しなら」


「十分だ」


由良は即答した。


「君を待ちながら、ちょうどいい店を見つけた。そこで話そう」


その一言で、真田は確信した。


この再会は、やはり偶然ではない。


県警本部を出る。


昨夜の雨は上がっている。

濡れたアスファルトは、まだところどころ光を反射していた。


空には晴れ間もあったが、黒い雲の塊が早い速度で流れていた。

まるで、何かが動いているかのように。


喫茶店は、県警から徒歩5分ほどの場所にあった。


外観は落ち着いた煉瓦造りで、中に入ると間仕切りが多く、他の客との距離も保たれている。


密談には、都合がいい。


奥の席に腰を下ろすと、2人は料理を注文した。

由良はジンジャーエールとカツサンド。

真田はブラックのアイスコーヒーと野菜サンド。


しばらくして、料理が運ばれてきた。

飲み物に入っている氷の音が、小さく響く。


由良が口を開いた。


「福岡県警の宇都宮警視正を知っているな?」


唐突だった。


「知っているも何も……連続殺人事件の責任者で、直属の上司のような立場です。今朝も彼と衝突して……休暇を命じられました」


淡々と答える。


だが“休暇を命じられました”と言った瞬間、自分の声が思った以上に硬いことに真田は気づいた。


由良は静かに真田を見つめた。


「……彼には、気をつけろ」


短い言葉。

だが、重い。


真田の胸が、わずかに締まる。


「気をつけろ……とは?」


由良は視線を窓の外へ向けた。


「今は詳しく言えない」


言葉を選んでいる。


「だが、厄介な問題がある。放っておけば、現場より先に“結論”だけが固められる種類の問題だ」


広域管理官が、“厄介”と表現した。


それは、単なる不手際の域を超えていた。


「君が休暇に入ると聞いて、ちょうどいいと思った」


「ちょうどいい……?」


「表に出ずに動ける人間が必要だ」


真田の鼓動が速くなる。


宇都宮。

中央。

広域。


点と点が、まだ線にはならなかった。

それでも、今朝自分が感じた“外された感覚”が、急に別の輪郭を持ち始める。


由良はカツサンドに手を伸ばし、一口かじった後で言った。


「君が今、最も信用している同僚は誰だ?」


質問の意図は明確だった。


極秘裏に動くなら、少人数。

裏切られない人間。


真田は迷わなかった。


「小早川警部補です」


即答だった。


由良は小さく頷く。


「なるほど」


真田の視線が鋭くなる。


「宇都宮警視正は、何をしているんですか?」


由良はすぐには答えなかった。


カツサンドの最後の一口を飲み込み、ナプキンで口元を拭う。


「まだ確証はない。だからこそ、慎重に動く必要がある」


声は低い。


それ以上は言わない。

だが、それで十分だった。


偶然にしては、整いすぎている。


真田の休暇命令も。

記者会見の強行も。

“模倣犯”という言葉の軽さも。

そして何より、4人目が出たこのタイミングで、自分だけが現場から外されたことも。


「休暇中、動けるか?」


由良が問う。


「もちろんです」


迷いはない。


その返答は、自分でも少し驚くほど早く出た。


悔しい。

怒りもある。

でも、その感情ごと捜査へ使うしかないところまで来ている。


由良は小さく笑った。


「やはり君は変わらないな」


氷が溶ける音が、静かに響く。


喫茶店の窓の外を、黒い雲が流れていった。


由良との接触は、新しい情報の提示だった。

だが真田にとってそれ以上だった。


現場から外されたことが、ただの敗北ではなく、別の入口へ繋がるのかもしれない。


そう思えた瞬間、胸の中の悔しさが、わずかに形を変えた。


嵐は、まだ終わっていない。


そして真田は、自分がいまようやく、別の扉の前に立たされたのだと感じていた。


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