第59話 原点
真田が宇都宮の執務室にいた、まさにその頃――
5班の執務室では、小早川陽介が盛大なあくびをしていた。
昨夜から続く緊張と、睡眠不足。
目の前に置いてあったブラックの缶コーヒーを、ほとんど無意識のまま一気に飲み干した。
喉を通る苦味が、じわりと意識を引き戻してくれる。
その様子を横目で見ていた安山潤一郎が、ゆっくりと口を開いた。
「それにしても、おまえの“勘”は当たっちまったな」
声は低い。
「まあ……当たってほしくはなかったがな」
小早川は、乱れた髪を掻き上げながら、苦く笑った。
「まったくです。世の中には当たって嬉しい勘と、嬉しくない勘がありますけど……今回は間違いなく後者でしたね」
普段の豪放な調子とは違う。
声に、わずかな疲労が滲んでいた。
捜査本部の空気は、昨日とはまるで別物だった。
“解決”の安堵は、わずか半日足らずで崩壊した。
しかもその演出を主導したのが宇都宮だという事実が、余計に士気を削いでいた。
小早川は椅子をくるりと回し、安山の方へ向き直った。
「ヤスさん。俺、今朝からずっと考えてたんですけど……今回の事件、もう一度“原点”に戻ってみませんか?」
真剣な目。
「原点? どういう意味だ?」
安山が眉をひそめる。
小早川は再び椅子に腰を下ろしたまま、少し間を置いてから言った。
「一連の事件の発端は何だったか――被害者のスマホに届いたメッセージと写真ですよね」
安山が小さく頷く。
「なるほど……」
小早川は続けた。
「そもそも、犯人はどうやって被害者の番号を知ったんでしょうか?」
その瞬間、安山の表情が変わった。
「あ……」
これまで彼らは、犯行手口、遺棄方法、スカート持ち去り、予告電話――“結果”ばかりを追っていた。
だが、最初の一歩は番号の入手だ。
「容疑者に直接聞ければ早い。でも原口は意識不明。宇都宮の妨害もあって、写真とメールの事実を知っている人間は限られている。完全に盲点でした」
小早川の声は冷静だった。
安山が腕を組む。
「単純に考えれば、手口は2つだな」
「1つは?」
「容疑者本人、あるいは協力者が被害者と接点を持っていた可能性。容易に連絡先を知り得る立場の人間だ」
「もう1つは?」
「接点がなくても、連絡先を調べられる立場にいる人物――」
その言葉が落ちた瞬間。
「同感です」
背後から、ややハスキーな声が響いた。
振り返る。
真田瑞希が立っていた。
顔色はわずかに疲れている。
だが目の光は消えていない。
その代わり、何かを押し殺した後の硬さが、表情の底に残っていた。
「そのどちらか、あるいは両方に当てはまる人物が怪しい」
小早川が立ち上がる。
「真田さん、戻ったんですね。宇都宮のやつは?」
だが、彼女の表情で察した。
「……話になりませんでした。それどころか――」
真田は机へ歩み寄る。
そして、1つずつ静かに置いていった。
警察手帳。
手錠。
拳銃。
業務用スマホ。
「ちょ、ちょっと待ってください。何があったんです?」
小早川が狼狽する。
「宇都宮警視正から“休暇を取れ”と命じられました」
淡々とした声。
だがその“淡々”の奥に、熱がある。
「今から手続きを取ります。副班長である小早川さんに、形式上これらを預けます」
一瞬の間。
「ただし――」
真田は顔を上げた。
「捜査を下りる気は、まったくありません」
その言葉は、静かに、しかし強く響いた。
執務室に重い空気が流れる。
小早川は言葉を失っていた。
真田の目が、いつもより少しだけ剥き出しだったからだ。
冷静に見える。
だが、その奥には悔しさが燃えている。
だが、最初に口を開いたのは安山だった。
「真田さん……ご実家は、山口県だったな?」
「ええ。宇部市です」
「新幹線なら新山口まで約30分か。車でも高速で2時間ほどだな。案外、近い」
その意図を、小早川もすぐ理解した。
「休暇、何日ですか?」
「1週間です」
「個人の番号、教えてもらえます?」
小早川が続ける。
「プライベートのやりとりまで、上が管理することはないでしょう。もしかしたら、うっかり業務の話をしちゃうかもしれませんが……俺、ドジなんで」
わざとらしい笑み。
だがその裏には、明確な意思がある。
“外から動け”。
それが、2人のメッセージだった。
真田は小さく息を吐いた。
もう3年近く、実家に帰っていない。
それに疲労は、たしかに限界に近い。
ふと、小早川が以前言った言葉を思い出す。
――休む時は休む。
――飯を食う時は食う。
鰻屋での、あの言葉。
「……少しだけ、甘えさせてもらいます」
だが、その目は休暇を取る人間の目ではなかった。
“原点”に戻る。
番号の入手経路。
そこに、何かがある。
それに現場から外されたからこそ、別の角度で見えるものもあるはずだ。
真田瑞希は、机の上に置いた自分の装備を見下ろした後、もう一度だけ2人の顔を見た。
それは、切り離された人間の顔ではなかった。
むしろ、別の線で捜査に入り直す人間の目だった。




