第58話 休暇命令
昨夜、4人目の遺体に臨場してから今に至るまで――
真田瑞希が取れた睡眠は、わずか1時間程度だった。
それも深く眠れたとは言い難い。
目を閉じれば、プレハブ小屋のそばに横たわる少女の姿が浮かび上がる。
索状痕。
胸の前で組まれた両手。
整えられた遺体。
それでも、彼女はそれを表情に出さない。
これまでも何度か修羅場に遭遇してきた。
“丈夫な身体”は、彼女の取り柄のひとつでもあった。
だが、その丈夫さにも限界はある。
それを認めるつもりはなくても、身体の奥ではもう疲労が静かに蓄積していた。
宇都宮の執務室を出ようとした時、呼び止められる形で再び中へ戻された真田は、窓際に立つ宇都宮の背中を見つめていた。
「ところで、真田くん。ひとつ提案なんだが――」
宇都宮は真田へ向き直り、ゆっくりと歩み寄ってきた。
真田の右隣に立つと、顔を合わせることなく、前方を見据えたまま口を開いた。
「君、しばらく休暇を取ったらどうだ?」
唐突な言葉だった。
「連日連夜の君の動きは、非常に目を見張るものがある。実に精力的だ。だがな、誰しも体力と精神には限界がある」
穏やかな口調。
だが、どこか計算された響きがあった。
「少し休むには、ちょうどいい頃合いじゃないかと思うのだがね」
真田は、思わず目を見開いた。
だが、反論の言葉が出るまでに時間はかからなかった。
「お言葉ですが――」
声は震えていない。
「この事件は、まだ解決していません」
宇都宮の横顔は動かない。
「私だけではありません。同じ班も、他の班も、全員が全力で動いています。そんな中で、私だけ休暇を取るなど――」
言葉を重ねようとした、その時。
「君は、他の連中とは違う」
宇都宮の声が、被せるように落ちた。
静かだが、有無を言わせぬ響き。
「君は“キャリア”だ」
その一語に、すべてが込められていた。
「将来、この警察組織を背負っていく立場の人間だ。ここで消耗させるわけにはいかない」
真田は、わずかに視線を逸らした。
“キャリア”。
便利な言葉だった。
庇う時にも使える。
遠ざける時にも使える。
「これはな、捜査本部責任者としての判断だ」
宇都宮は初めて真田の方へ顔を向けた。
「拒否という選択肢はない」
その目には、温情の色はない。
「そうだな……1週間。妥当なところだろう」
淡々と告げる。
「すぐに手続きを取りたまえ」
室内に、沈黙が落ちた。
真田の胸の内で、何かがざわめいた。
これは本当に“配慮”なのか。
それとも――
昨夜の現場で感じた違和感。
先ほど宇都宮にぶつけた疑念。
それらが、頭の中で一気に結びつきそうになる。
それでも、ここで感情を露わにしても意味がない。
宇都宮の目は、すでに次の記者会見へ向いていた。
真田は、ゆっくりと一礼した。
「……承知しました」
声は、感情を押し殺していた。
執務室を出ると、廊下の蛍光灯の白い光がやけに眩しく感じられた。
足取りは重かった。
だが、歩みは止めない。
数歩進んだところで、真田は無意識に右手を強く握りしめていた。
爪が掌に食い込む。
痛みが、少しだけ頭を冷やしてくれる。
休暇命令。
その言葉の形をしたものが、本当に労いだったのかどうか。
今の真田には、とてもそうは思えなかった。
廊下の窓の向こうには、流れる雲の間から青い空が顔を出している。
だが、真田の胸中にあるのは、それとは程遠い予感だった。
事件は、終わっていない。
それどころか、核心に近づこうとした瞬間に、自分は外された。
悔しかった。
怒りもあった。
そして何より、自分がまだ現場に立てていれば、何かを変えられたかもしれないという感覚が、胸の奥に鈍く残っていた。
扉が背後で静かに閉まった。
その音が、妙に大きく響いた。
真田は振り返らなかった。
振り返れば、そこで本当に遠ざけられてしまう気がしたからだ。




