第6話 水曜日の帰り道
10月14日、水曜日――
チアダンス部の練習が終わったのは、午後7時15分頃だった。
最近は、全員の動きを揃えるための最後の詰めが長引きがちで、3時間を少し越えることも珍しくない。
体育館を一歩出ると、外はもうすっかり暗かった。
昼間の熱が引いた空気が、汗の残る肌にひやりと貼り付く。
部のメンバーたちは部室へ戻り、帰り支度を始めていた。
床に落ちたタオルを拾う音。
ファスナーを上げる音。
誰かが水を飲み込む喉の音。
いつもなら他愛もない会話が混じるはずなのに、斉藤恵梨香の事件以来、部室の空気はどこか沈んだままだった。
笑い声が上がっても、すぐに引っ込む。
そんな日が続いている。
全員が部室を出るまでは、コーチの関谷先生が残るのが通例だった。
親が車で迎えに来る生徒もいる。
校門付近のざわつきは落ち着いてきたとはいえ、夜の帰り道に対する警戒だけは、前より確実に強くなっていた。
副部長の三田村安奈も、今まさに帰ろうとしていた。
斉藤恵梨香の事件から数日。
遅い時間にマスコミが学校の周囲をうろつくことは減ったが、それでも校門の外の暗がりに人影らしいものが立っているのを見ると、安奈は無意識に眉をひそめることがあった。
見間違いかもしれない。
そう思っても、嫌な感じだけは残る。
安奈は普段からバスで、自宅のある別府まで帰っていた。
母親は看護師で、夜勤の日が多い。今夜も迎えは期待できない。
しかも今日は、水曜日だった。
午後9時から始まる恋愛ドラマに、安奈の推し俳優が出る。
録画もしてあるが、リアルタイムで観るのが大事なのだ。
飲み物とお菓子をテーブルに置いて、ソファに沈み込み、画面を見る。
そこまで思い浮かべると、少しだけ気が楽になった。
学校の最寄りの停留所から、ほぼ定刻通りに来たバスへ乗り込む。
混雑のピークを過ぎた時間帯なのか、車内は疎らだった。
安奈は後方の窓際に腰を下ろし、隣に誰かが座るのが嫌で、通路側にバッグを置いた。
最近は特に、知らない男の視線というものに無駄に反応してしまう。
背もたれに深く寄りかかり、脚を組み、スマホを取り出す。
ニュース。
芸能人の話題。
グループのやり取り。
薄暗い車内で、画面の光だけがやけに白く見えた。
その白さを見た瞬間、先週届いた妙なメッセージのことが頭をよぎる。
青い風景写真。
“エアリアル”という、気取っているのか、ふざけているのかもわからない名乗り。
安奈は小さく鼻で笑った。
――どうせ、くだらないいたずらだし。
そう思い直して、画面をスクロールする。
だが、指先だけはなぜか少し落ち着かなかった。
*
何かに夢中になっている時の時間は早い。
気づけば、安奈が降りるバス停の名前が車内アナウンスで流れていた。
スマホで時刻を確認する。
遅い。
思っていたより、バスが遅れていた。
胸の奥がきゅっと縮む。
午後9時まで、もうあまり余裕がない。
ドラマは録画している。
けれど今日は、最初の場面をどうしてもリアルタイムで観たかった。
マンションまでは、普段なら大通り沿いの明るい道を通る。
少し遠いが、人通りもある。
一方、住宅街を抜ける近道なら、ずっと早い。
暗くて人通りは少ないが、急げばすぐだ。
安奈はいつもなら、遅い時間に迷わず明るい方を選ぶ。
それが自分の中のルールだった。
――でも、今日は。
バスを降りた瞬間、安奈は反射的に住宅街の方へ足を向けていた。
バスが遅れた。
9時が近い。
今日だけなら、大丈夫。
理屈というより、それはほとんど焦りの勢いだった。
歩幅を広げる。
速く歩いてしまえば、その選択が正しかったことになる気がした。
マンションに着いたら、冷蔵庫に入っている缶チューハイもどきを開けて、コンビニで買っておいたポテトチップスを摘みながら、録画じゃなくリアルタイムでドラマを観る。
推し俳優が出てくる最初の場面だけは見逃したくない。
そこまで思い浮かべたところで、安奈は少しだけ気分が上向いた。
大丈夫。
急げば間に合う。
家に着けば、いつもの水曜日に戻る。
歩きながらスマホにイヤフォンを繋ぎ、お気に入りのアーティストの曲を流す。
ノリのいいリズムを耳から入れることで、暗闇と静けさの中を移動する不安を押し返したかった。
住宅街は、空き家が目立ち、街灯も疎らだった。
家々の窓は暗く、カーテンの隙間から光が漏れている場所も少ない。
靴底が地面を擦る音だけが、妙に大きく聞こえる。
風が吹くたび、どこかで乾いた葉が擦れた。
さっきまで頭の隅へ追いやっていた青い写真が、不意にまた浮かぶ。
暗い色。
温度のない感じ。
海の底みたいな青。
消したはずなのに、思い出そうとすると胸の奥がざらつく。
安奈は眉をしかめた。
――だから、くだらないいたずらだって。
心の中で言い捨てるようにして、歩く速度をさらに上げる。
もう少しで住宅街を抜ける。
そうすれば、マンションが見える。
その時だった。
何か、合わない。
音楽は流れている。
耳の中では、さっきと同じリズムが続いている。
なのに、そのリズムの外側から、別の無音がじわりと滲んでくるような感覚があった。
自分の足音以外の何かが、歩幅の裏側に重なっている気がする。
安奈は背後に、得体の知れない気配を感じた。
じっと見られているような感覚。
背中の皮膚が、薄い膜みたいに張り詰める。
イヤフォンを着けているのに、はっきりわかってしまった。
安奈は足を止めた。
心臓が一段、強く跳ねる。
急いでイヤフォンを外す。
その直後――
「ニャア……」
「ひいっ!」
左側から聞こえた鳴き声に、安奈は短い悲鳴を上げた。
よく見ると、背丈と同じくらいの高さの空き家の塀に、真っ黒な猫が1匹、じっと座っていた。
体は夜の闇に溶け込み、マスカット色の瞳だけがぎらりと光っている。
周囲は、「リーリー」という鈴虫の声を除けば、深く沈んだような静寂に支配されていた。
息を吸う音さえ、余計な音に感じる。
「な、何だ……猫か。もう驚かせないでよ!」
安奈は大きく息を吐き、少しだけ力を抜いた。
――大丈夫。猫だ。
――もうすぐ家だし、ドラマにもまだ間に合う。
そう言い聞かせた、その瞬間だった。
「えっ? あ、あれ?」
首に、硬いものが食い込んだ。
息が奪われる。
激痛と息苦しさで、意識が遠のいていくのがわかった。
視界の端が暗くなり、足元がふわりと浮く。
喉が鳴るのに、声にならない。
だ、誰か……助けて……。
叫びたい。
けれど、声など出るはずもなかった。
不幸にも、暗がりに沈んだ住宅街の道には、通り過ぎる人影がひとつもない。
ついさっきまで思い浮かべていた、
明るい部屋。
ソファ。
テレビの光。
そんなものが、遠い場所へ沈んでいく。
鈴虫の声だけが、変わらず響いていた。




