第5話 2人目の青
放課後――
生徒たちの下校時間を見計らったように、またしてもマスコミらしい人々が学校の周囲をうろついていた。
今朝、学校側から強く抗議されたせいか、人数は減っている。
それでも諦めたわけではないらしい。
目立たない場所へ散り、校門から出てくる生徒を待ち構えている。
終業のチャイムが鳴り、3階の窓から外を見下ろしていた留美は、その動きに気づいた。
何人かの生徒が立ち止まり、取材に応じている様子まで見える。
校門の辺りだけ、空気の温度が違って見えた。
留美は梓沙やクラスメイトに軽く挨拶をすると、体育館のそばにある細長いプレハブへ向かった。
チアダンス部の部室がある場所だ。
校舎を出ると、廊下の足音が背後で薄れ、外気の冷たさが頬に触れた。
昼間のざわめきは少しずつ引いていくのに、事件の話題だけはなかなか沈まない。
耳に入る断片的な言葉が、妙に後を引いた。
11月下旬にあるバスケ部の試合に向けて、最近は放課後3時間ほどの練習が続いていた。
新しい振り付けを短期間で仕上げなければならず、部の空気はこのところずっと張り詰めている。
留美は2年生ながら、9年続けてきたチアダンスの経験を買われ、重要なポジションを任されていた。
部室の引き戸を開けると、汗と洗剤と柔軟剤が混じったような匂いがふわりと鼻を掠めた。
床は少し軋み、窓の外には大きな紅葉の木が見える。
部室には、ちょうど2人の生徒がいた。
そのうちの1人が、三田村安奈だった。
チアダンス部の副キャプテン。
留美が憧れている先輩のひとりだ。
少し茶色に染めたロングヘアをシュシュでまとめたポニーテール。
背が高く、スタイルもいい。
気が強くてさっぱりした性格で、男女を問わず友達が多い。
けれど、留美にとっての安奈は、それだけの先輩ではなかった。
入部して間もない頃。
リフトのタイミングが合わず、何度も失敗していた時期がある。
落ち込みかけていた留美に、安奈だけが笑って言ってくれた。
――今ので逃げなかったの、結構すごいよ。留美は絶対伸びる。
あの一言を、留美は今でも覚えている。
上手くて、強くて、でも後輩の小さな悔しさをちゃんと見てくれる。
そういう先輩だった。
留美がチア衣装に着替え始めた、その時だった。
ピロリロリーン!
突然、メールの着信音が部室に響いた。
留美が設定している音ではない。
静かな部室で、その電子音だけが妙に鮮明だった。
「あれ? もしかして、私?」
すぐにそう言ったのは安奈だった。
まだ着替えの途中で、高校生にしては派手な下着が少し見えているのも気にせず、バッグからスマホを取り出す。
指先の動きが、いつもより少し速い。
「何ですか? もしかして彼氏からのラブラブメールですか?」
同じ部屋にいた後輩が、からかうように声をかけた。
「あなたね、喧嘩売ってるの? 彼氏とは1か月前に別れたって知ってるでしょ?」
「ヘヘへ……ごめんなさーい!」
後輩はおどけた笑みを残し、先に部室を出ていった。
ドアが閉まる。
部室は、一段静かになった。
遠くから体育館の反響音だけが、微かに届いている。
「何なの、あいつ。でも、こんな時間に誰からだろう?」
そう言って安奈が画面を覗き込んだ、その瞬間だった。
ほんのわずかに、肩が震えた。
すぐに怪訝そうに眉を寄せる。
その小さな変化だけで、空気が変わったのがわかった。
「ねえ……ちょっと見てよ。わけわかんない!」
安奈はスマホの画面を、留美の前へ突き出した。
留美は思わず目を見開いた。
表示されていたのは、見覚えのない風景写真だった。
深い青。
暗い海の底を思わせるような、温度のない青。
立体駐車場と古い民家。
どこにでもありそうな景色なのに、その色のせいで現実味だけが削がれている。
初めて見るはずなのに、なぜか目を逸らしたくなった。
留美は無意識に息を詰める。
ただの写真のはずだった。
なのに見ていると、胸の奥がひやりと冷える。
画面の中だけ、空気が少し違っているように思えた。
「いたずらメールですか? 差出人は誰なんです?」
留美が声を抑えて尋ねると、安奈は不機嫌そうに吐き捨てた。
「はじめましてエアリアルと申します……何それ?」
「えっ?」
留美が聞き返すと、安奈はもう一度画面を見せた。
写真に添えられた文面には、たしかにそう書かれていた。
――はじめましてエアリアルと申します。
その一文を見た瞬間、留美の胸の奥で何かが軋んだ。
嫌な冷たさが背中をなぞった。
「差出人の番号は、●●●-●●●●-●●●●……。よし、かけ直して文句言ってやる!」
安奈はそう言うと、勢いよくその番号へ電話をかけた。
呼び出し音が一度だけ鳴る。
すぐに、無機質な案内へ切り替わった。
「あなたさまのおかけになった電話番号は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため――」
スマホから流れるのは、それだけだった。
「何なの? 本当に腹立つわ……」
安奈は顔をしかめ、部室の小さな椅子をつま先で蹴った。
椅子が床を擦る短い音が鳴り、留美は反射的に肩を竦める。
けれど、その苛立ち方がいかにも安奈らしくて、留美は一瞬だけ少し安心もした。
得体の知れないものに怯えるより先に、気持ち悪い相手へ正面から腹を立てる。
そういう強さが、留美は好きだった。
ただ、その安心は長く続かなかった。
安奈の声は強い。
けれど、指先だけは落ち着かないままスマホの縁をなぞっている。
怒っている。
でも、その奥に、本人が認めたくない小さな動揺がある。
そんな気がした。
「繋がらない番号って、きっと間違えて送られてきたメールですよ。気にしない方がいいですよ」
留美はできるだけ普通の声で言った。
だが、安奈の表情は緩まない。
むしろ、顔つきは少しずつ固くなっていく。
「本当に気持ち悪い! こんなの、さっさと消しちゃおう!」
安奈は語気を強め、慣れた手つきでスマホを操作してメッセージを削除した。
画面が切り替わる。
さっきまでそこにあった青い写真は、消えた。
消えた。
はずなのに。
留美の胸の奥には、写真を見た時の冷たさだけが残っていた。
ただ変なものが先輩のところへ来てしまった、という感覚だけが、どうしても消えない。
「さあ、バスケの試合も近いから、さっさと練習! もう私たちが最後みたいだし、すぐ着替えて体育館に行くわよ!」
安奈は、半ば無理やり吹っ切るようにそう言うと、着替えを済ませて部室を出ていった。
留美は、その背中を見送った。
頼りになって、少し雑で、でも後輩のことをちゃんと見てくれる先輩。
ああいう人には、変なものに近づいてほしくない。
そう思った瞬間、胸の奥の冷たさは、さっきよりはっきりした形になった。
ただ写真が気持ち悪いのではない。
あれが、安奈に届いたことが嫌だった。
部室の中には、もう誰もいない。
それなのに。
さっきの着信音だけが、まだ耳の奥に残っている気がした。




