第4話 噂は真実を殺す
10月9日、金曜日。
朝――
「ねえ、知ってる? うちの学校の2年生が殺されたって話。水泳部の斉藤恵梨香って子らしいよ」
「うん、ネットの速報で見てびっくりした。昨日の夜のニュースでもやってたよね?」
晴明女子高へ続く通学路は、その話題で満ちていた。
ひそひそ声が、朝の空気のあちこちで立ち上がっては消える。
足音の間から聞こえてくる単語は、どれも似ていた。
斉藤。
殺された。
箱崎。
スカート。
警察。
事件が発覚したのは昨日の未明。
同じ日の夕方にはニュースで大きく報じられ、今朝になっても、その熱はまるで冷めていなかった。
晴明女子高は、福岡市内でもよく知られた名門女子校だ。
だからなのか、あるいはSNSの時代だからなのか。
話は一晩で学校中へ広がっていた。
真偽より先に、話題として強いものだけが選ばれて伝わっていく。
切り取られ、言い換えられ、別の誰かの口へ渡っていく。
噂は、もうそれだけでひとつの生き物みたいだった。
城戸谷留美も、昨夜そのニュースを見た。
同じ学校の生徒が殺された。
ただ、斉藤恵梨香と特別に親しかったわけではない。
クラスも違うし、話したこともない。
県大会で3位になった、水泳部の有名な子。
その程度の認識だった。
正門が近づくにつれ、同じ話題ばかりが耳に入ってくる。
――あの子もこの子も、その話ばっかり。
少し冷めた気分で歩いていると、同級生の中林梓沙の後ろ姿が見えた。
留美に気づいた梓沙が、すぐに振り返って近づいてくる。
「留美くん。この事件、どう思うかね? 犯人の心当たりとかは?」
わざと低い声。
いかにも神妙ぶった顔。
留美は思わず吹き出しそうになった。
梓沙は探偵小説が大好きで、時々こうして“尊敬する探偵のなりきり”を始める。
本人は真面目なつもりなのだろうが、どう見ても芝居がかっていて、留美には毎回少しおかしかった。
「はいはい。警察じゃないんだから、ごく普通の女子高生にそんなことわかるわけないでしょ。そう言うあなたは、もう犯人の目星がついてるとか言うつもり?」
留美が目を細めて返すと、梓沙はすぐに神妙な顔を崩した。
「だよね! でもさ、今回殺された子って、制服のままだったのに、なぜかスカートだけ穿いてなかったらしいじゃない? やっぱり変質者っぽくない? そういう特殊な性癖の気持ち悪い人間っているし」
「まあ、とにかく気をつけないと。犯人が捕まらないと安心できないよ……」
留美は前を見た。
学校の正門が見えてくる。
けれど、そこは明らかにいつもの朝とは違っていた。
新聞社やテレビ局の記者らしい人影。
光るカメラのレンズ。
風に揺れるマイク。
聞き慣れない呼び止める声。
「すみません、この学校の生徒さんですよね? 斉藤恵梨香さんって、どんな子でしたか?」
「同級生ですか? 最近、何か変わった様子は?」
質問を向けられた生徒たちは、戸惑いながら立ち止まる者もいれば、面倒そうに首を振って通り過ぎる者もいる。
答えている子たちの顔は、一応深刻そうだった。
けれど、その奥で――
何かに触れた高揚が、小さく光っている気がした。
真剣さと好奇心が、同じ顔の中に同居している。
それが妙に気持ち悪くて、留美の胸の奥がざわついた。
「皆さん! 学校の授業に支障が出ますので、このような取材は固くお断りします!」
しばらくして教師たちが現れ、強い口調でマスコミを牽制した。
留美たちは、そのざわめく人の群れの間を抜けていく。
足が自然と速くなる。
小走りだったはずなのに、気づけばほとんど全力に近かった。
言葉を交わす余裕もない。
背中を押されるような感覚のまま、2人は校舎へ駆け込んだ。
*
留美と梓沙の教室は、最上階の3階で、しかも階段からいちばん遠い奥にある。
ようやく辿り着き、息を切らしながら教室のドアを開けると、中も予想通りだった。
ここでも、斉藤恵梨香の話題で持ちきりだった。
「恵梨香って、たしかA高の男子と付き合ってたって噂だよ」
「へえ、じゃあやっぱり彼氏絡みじゃない?」
断片的な噂が、熱を持ったまま飛び交っている。
誰も本当のことなんて知らないはずなのに、口調だけは妙に断定的だった。
スマホの画面を顔の近くまで持ち上げて見せ合う子。
「やばいよね」と言いながら、どこか声が弾んでいる子。
深刻そうな顔をしながら、次の噂を待っている子。
その中で、ひときわ耳に刺さる声があった。
「でもさ、ああいう子って、なんか男関係派手そうじゃない?」
留美は思わずそちらを見る。
言った本人に、悪気はないように見えた。
ただ、手に入れた材料を少し強い言葉で口にしただけ。
その軽さが、余計に嫌だった。
死んだ相手は、もう何も言い返せない。
それなのに、勝手な想像だけで輪郭を塗り潰していく。
留美は、胃の奥がひやりと冷えるのを感じた。
怖いのは、事件だけじゃない。
こういう目だ、と彼女は思った。
知りたいという顔をしながら、
本当は見世物を探しているような目。
誰かの死を、自分たちの退屈しのぎに変えてしまう目。
「あっ、留美、梓沙、おはよう」
クラスメイトの1人が近づいてきた。
「もう恵梨香を殺した犯人って、彼氏ってことでよくない?」
目をぎらつかせたまま、至近距離まで顔を寄せてくる。
返事を待つというより、同意を取りに来た顔だった。
留美は、何か言わなければと思った。
そんな決めつけ、最低だよ、と。
死んだ人にそんな言い方はないでしょ、と。
でも。
喉の奥で、言葉が止まった。
この空気の中で否定したら、自分だけが浮く。
面倒なやつだと思われる。
たったそれだけのことが、なぜか今はひどく嫌だった。
結局、留美は曖昧に視線を逸らすことしかできない。
その瞬間、黙った自分の方がもっと嫌になった。
あの子たちの言い方を気持ち悪いと思ったくせに、
自分は何も止めなかった。
胸の奥に、薄く濁った自己嫌悪がじわりと広がる。
ジリリリリ……。
ちょうどその時、始業のチャイムが鳴り響いた。
同時に担任の高尾先生が教室へ入ってくる。
40歳を少し過ぎた男性で、担当は数学。7対3に分けた髪と黒縁眼鏡が、いかにも数学教師らしい印象だった。
高尾先生は教壇の後ろに立つと、教室全体を見回して口を開いた。
「おはようございます。皆さんもすでに知っていると思いますが、お隣のクラスの斉藤恵梨香さんが亡くなりました。大変悲しいことです。しかし、皆さんは普段通りの生活をしてください」
言葉は、それだけだった。
こういう時に何を言えばいいのか、先生自身もわかっていないのだろう。
ホームルームは中途半端なまま終わり、そのまま授業へ入っていった。
2限目以降の教師たちも似たようなものだった。
学校側から何か言われているのか、事件には深入りしないまま授業だけを進めていく。
表面だけは、いつも通りの学校生活が流れていった。
ただ――
休み時間だけは別だった。
教室でも廊下でも、事件の話題だけが熱を持ち続ける。
誰が何を知っているのかわからないまま、言葉だけが増えていく。
留美は、そのたびに思った。
この空気が、苦手だ。
誰かが死んだという事実より先に、
その死に群がる視線の方が、ずっと生々しくて嫌だった。
事件そのものより、人の目の方が気持ち悪い。
そんな感覚が、朝からずっと胸の中に残っている。
放課後が近づいても、そのざわめきは耳の奥に貼り付いたままだった。
特に、あの単語だけが妙に残る。
――スカート。
誰かが面白がるように口にした、その言葉。
留美は机の上の自分の手を見た。
何でもないはずなのに、指先だけが少し冷えていた。




