第55話 終わっていなかった夜
午後10時過ぎ――
その時間までは、誰もがまだ、終わったと思いたがっていた。
留美は自室のベッドに寝転び、枕元のスマホを手に取った。
梓沙からの返信は、まだない。
《大丈夫? お姉さん、ひどくなかった?》
自分が送ったメッセージの吹き出しだけが、画面のいちばん下にぽつんと残っている。
既読もつかない。
「……寝てるのかな?」
小さく呟く。
そうであってほしい。
わざわざ悪い方へ考えたくない。
そう思いながら、もう一度だけ画面を見た。
何も変わっていない。
*
5班の執務室でも、夜は静かに流れていた。
昼間までの慌ただしさが引き、残っているのは最低限の書類整理と、惰性に近い確認作業だけ。
蛍光灯の下で、誰もがどこか少し疲れている。
真田はホットコーヒーのカップを両手で包みながら、机の上の資料を見つめていた。
視線は活字の上にあるのに、頭の中は別のところを回っている。
終わったと思いたい。
だが、小早川の「整いすぎている」という言葉が消えない。
小早川自身は、腕を組んで椅子にもたれていた。
目を閉じているように見えるが、眠ってはいない。
意識の底で、まだ何かが引っかかっている。
「今日は、このまま何もなければいいですね」
清水が、ほとんど独り言みたいに言った。
「それがいちばんだ」
安山が短く返す。
誰もその言葉を否定しなかった。
否定したくなかった。
その時――
小早川のスマホが震えた。
彼は目を開け、表示を見た。
相手は地域課の後輩だった。
「……はい、小早川です」
最初は、ごく普通の応答だった。
だが、数秒後。
その表情が固まる。
椅子が小さく鳴る。
上体を起こし、声の調子が変わった。
「何だって?」
執務室の空気が、一瞬で張り詰める。
真田が立ち上がる。
安山も須賀も、会話の内容を察するより先に顔を上げていた。
小早川はスマホを耳に当てたまま、低い声で確認する。
「午後10時ちょうど……? また予告電話が入ったんだな?」
短い沈黙。
「場所は?」
聞き終えた瞬間、目の色が変わった。
通話を切る。
「地域課だ」
小早川が言う。
声は抑えているのに、硬い。
「午後10時ぴったりに、また予告電話があった。女子高生の遺体遺棄通報だ」
一瞬、誰も動けなかった。
終わっていなかった。
その事実が、言葉になる前に全員の身体へ突き刺さっていた。
「……本部へ連絡。現場急行だ」
小早川の声が、今度は完全に刑事の声へ戻る。
真田はもう上着を掴んでいた。
「場所は?」
小早川が短く告げる。
安山が舌打ちした。
「やっぱり終わってなかったか……!」
「急ぎましょう!」
真田の声には、焦りと怒りが混じっていた。
守れなかったのかもしれない。
また間に合わなかったのかもしれない。
その予感が、足を速くする。
小早川はスマホをポケットへねじ込む。
違和感は正しかった。
だが、それを喜べるはずがない。
*
午後11時を回った頃、留美のスマホにネットニュースの速報音が鳴り始めていた。
最初は意味がわからなかった。
だが画面の下に流れたテロップを見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。
「新たな遺体発見か?」
送ったメッセージの吹き出しを確認する。
梓沙からの返信は、まだない。
既読にもなっていない。
その瞬間、留美の中で、
靴箱の前の「後でかけ直すから」が、嫌なくらい鮮明に甦った。
さっきまで、ただの違和感だったものが、急に別の形を持ち始める。
胸の奥が、じわりではなく、一気に冷えていく。
終わったと思っていた夜は、どこにもなかった。
そう気づいた時にはもう、遅すぎる気さえした。




