第54話 祝勝会みたいな夜
10月28日、水曜日。
夜――
街は、ようやくひと息ついたように見えた。
もちろん、事件前とまったく同じというわけではない。
けれど、少なくとも昨夜までとは違う。
テレビでもネットでも、“連続殺人事件は終息に向かっている”という空気が濃く流れていた。
福岡県警の会見が効いたのだろう。
「真犯人は意識不明のまま入院中」
「動機の解明を待つ段階」
そうした細部の受け取り方は人それぞれでも、多くの人にとって大事なのはひとつだけだった。
――もう、次は起きないかもしれない。
その希望に、街全体が少し寄りかかっていた。
留美の家でも、それは同じだった。
夕食の時間。
食卓には温かい味噌汁の湯気が立ち上り、テレビではローカルニュースが流れている。
海上自衛官である父・宗一郎は長期出航中で不在だったが、その代わりにパートの薬剤師である母・晴美と、8歳下の弟・誠一郎がいつもより少しだけ落ち着かない様子で画面を見ていた。
晴美は、盛りつけた皿を並べながらほっとしたように言う。
「やっぱり、犯人の目星がついたって大きいわね。これで少しは安心できるでしょう」
誠一郎が箸を止めて、留美の方を見た。
「じゃあ、もう変な人、出ないの?」
その聞き方は、事件の重さをまだうまく理解していない子どものものだった。
留美は少しだけ間を置いてから、曖昧に笑った。
「……そうだといいんだけどね」
晴美も小さく頷く。
「学校も、少しずつ普通に戻るといいわね」
留美は「うん」とだけ返した。
たしかに、少しだけ楽になっている。
それは嘘じゃなかった。
学校でも、教室でも、みんな少しずつ“次の話”をし始めていた。
事件に怯える顔ではなく、その先の普通の予定を口にする顔。
ふと、放課後に職員室の前を通った時のことを思い出した。
半開きの扉の向こうに、関谷コーチの横顔が見えた。
宮田先生と向かい合い、何やら今後の予定を話していた。
「再開するにしても、しばらくは全体じゃなくて――」
そこまで聞こえたところで、扉が少し閉まった。
留美は足を止めなかった。
立ち聞きするつもりもなかった。
けれど、“その後”の話が、もう学校の中では始まりかけているのだとわかった。
本当に、終わるのだろうか。
それとも皆が、終わったことにしたいだけなのだろうか。
いずれにしても、先の予定を話す余裕ができたということは、たしかにありがたい話ではあった。
だが、留美の胸の奥のざわめきが完全に消えたわけではない。
梓沙のことが、少しだけ引っかかっていた。
今日は本当なら、久しぶりに自分の家へ泊まりに来るはずだった。
それが、靴箱の前で急に取り止めになった。
お姉さんがバイト先で怪我をしたから、と。
食後、留美は自室に戻ってからスマホを開いた。
ベッドに腰を下ろし、しばらく画面を見つめた後、短いメッセージを打つ。
《大丈夫? お姉さん、ひどくなかった?》
送信。
すぐに既読はつかない。
それを見て、留美はスマホを伏せた。
家のことでバタバタしているなら、すぐ返事がなくてもおかしくない。
そう自分に言い聞かせる。
それに、もう事件は終わる方向へ進んでいるのだ。
昨日までみたいに、全部を悪い方へ結びつける必要はない。
そう思いたかった。
*
同じ頃――
5班の執務室にも、似たような緩みが漂っていた。
誰もはしゃいではいない。
だが、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んでいるのは間違いなかった。
コピー機の音。
キーボードを叩く音。
蛍光灯の白い光。
その全部が、昨日までより少しだけ“普通の残業”に近づいていた。
「今夜は、少しだけ眠れそうですね」
清水楓がぽつりと言う。
須賀修一も苦笑する。
「いや、ほんと。ここ数日ずっと浅かったですから」
安山潤一郎は椅子の背にもたれたまま、鼻を鳴らした。
「どうせまた、すぐ叩き起こされるさ。刑事の“眠れそう”は、たいてい当たらん」
軽口。
それが言える程度には、みんな気を抜きかけていた。
真田瑞希も、机の上の資料を閉じて短く息を吐く。
だが、小早川陽介だけは完全には乗れていなかった。
原口和人。
事故。
放火。
消えた端末。
全部が一本に繋がっているようでいて、どこかだけが妙に整いすぎている。
それでも、周囲が少しずつ「ここまでだ」と思い始めると、その空気に引っ張られそうになる瞬間もある。
ここで終わってくれればいい。
そう願う気持ちは、小早川にもあった。
失われるものは、これ以上増えない方がいい。
その一点だけは、誰よりも強く思っている。
「小早川さん、まだ引っかかってます?」
真田が低く尋ねる。
小早川は資料から目を離さずに答えた。
「……引っかかってますよ。だが、今夜中に何か出るとは思ってません」
それは本音だった。
窓の外の街は、雨も上がり、ところどころ路面が鈍く光っていた。
ニュース番組は、事件以外の話題へ少しずつ尺を移していく。
家庭も学校も警察も、どこかで“もう終わったと思いたい夜”を過ごしていた。
それは、祝勝会の前みたいな空気だった。
大声では喜ばない。
けれど、肩の力だけが少し抜けている。
誰もまだ知らない。
この夜が、安心の夜ではなく、
安心が壊れる直前の夜だということを。




