第53話 観察
小雨の中へと消えていった梓沙の後ろ姿。
それを見送っていたのは、留美だけではなかった。
北校舎1階の奥――生徒会室。
薄く閉ざしたブラインドの隙間から、灰色の光が細く差し込んでいる。
その光の中で、生徒会長・甲斐瑠璃子は自席に腰を下ろし、脚を組んでいた。
机の上ではなく、自分の右太腿の上にスマホを横向きに乗せている。
画面に映っているのは、本校舎の玄関口から出ていく梓沙の姿だった。
瑠璃子は、ほんの少しだけ首を傾けながら、その映像を見つめている。
唇には薄い笑み。
けれど、その目は静かすぎた。
本来は学校の安全管理のために設置された防犯カメラ。
だが瑠璃子は、父親の会社が関わっているシステムを通じて、その映像へ個人的にアクセスしていた。
指先が、画面の上を静かに滑る。
動画を止める。
少し巻き戻す。
また止める。
キャプチャーを取る。
梓沙が靴箱の前でスマホを見る瞬間。
留美から半歩離れる動き。
傘を持って走り出す背中。
ひとつひとつを、抜き出していく。
まるで記録ではなく、気に入った場面を選び取るみたいに。
瑠璃子の吐息が、画面に微かにかかった。
薄く曇る。
それをピンク色のハンカチで丁寧に拭う。
また見つめる。
コンコン――
突然、ドアを叩く音がした。
瑠璃子の指が、ぴたりと止まる。
「はい?」
声は柔らかい。
だが、それまでの空気を一瞬で閉じる声だった。
この日は生徒会の招集日ではない。
誰かがここへ来ること自体、想定外のはずだった。
「失礼します。会長……お疲れさまです。私に何かお手伝いできること、ありませんか?」
入ってきたのは、1年生の安倍美樹だった。
目立つ華やかさのない、地味な印象の少女。
黒髪はきちんと肩の辺りで揃えられ、制服の着こなしにも乱れがない。
派手さのない小さな顔立ちに、控えめな表情。
廊下ですれ違っても、すぐには記憶に残らないような、おとなしい空気を纏っている。
けれど彼女は、部屋の空気が自分の想像よりずっと冷えていることには気づいたらしい。
声を継ぐ前に、わずかな間があった。
「別に。何もないわ」
瑠璃子は、視線をスマホから完全には外さないまま答えた。
「そうですか。でも、何か雑務とか書類整理とか……」
美樹は一歩だけ部屋の内側へ入る。
入りすぎない距離。
気を利かせている後輩に見える、ぎりぎりの位置だった。
「招集日以外にここへ来るのはやめてくれる?」
瑠璃子の声は穏やかだ。
だが、拒絶は明確だった。
美樹はそこで、ほんの一拍だけ間を置いた。
「……わかりました。すみません、出直します」
すぐに頭を下げる。
声色はしおらしい。
表情も従順だ。
「何かあれば、また声をかけてください」
「ええ」
短い返事。
美樹はそれ以上何も言わず、一礼して部屋を出た。
閉じたドアの前で立ち止まることもなく、そのまま静かに廊下を歩いていく。
足音は小さく、すぐに遠ざかった。
生徒会室には、また静けさだけが戻る。
瑠璃子の机の上には、銀色に光る豪華な置き時計がある。
人の頭ほどの大きさがあり、左右のガラスケースには小さな人形が仕込まれている。
針が、午後5時を指した瞬間。
カチリ、と音がした。
人形が回転し始める。
“アイネ・クライネ・ナハトムジーク”の旋律が、生徒会室に流れた。
優雅で、整然としていて、どこか冷たい音色。
瑠璃子は閉じた扉をしばらく見つめていたが、やがて何事もなかったように視線をスマホの画面へ戻した。
そこには、雨の中を去っていく梓沙の後ろ姿が映っている。
「……行っちゃった」
誰に聞かせるでもなく、瑠璃子はそう呟いた。
その声音は、残念そうにも、満足そうにも聞こえる。
ブラインドの隙間から差し込んだ細い光が、膝の上のスマホ画面だけを静かに浮かび上がらせていた。
瑠璃子はそのまま、止めた映像の上に指先を置いた。
まるで、そこにまだ梓沙がいるかのように。




