第52話 後でかけ直す
放課後――
終業のチャイムが鳴ると、教室の空気は一斉に解けた。
椅子を引く音。
ロッカーを閉める音。
部活へ向かう生徒たちの足音。
ここ数週間ずっと校内を覆っていた重たい緊張は、まだ完全には消えていない。
けれど少なくとも今日の放課後には、「もう大丈夫かもしれない」と思いたがる気配が、たしかに漂っていた。
留美は机の横に立ったまま、教科書をバッグへ押し込んでいた。
梓沙もその隣で、ノートを重ねてまとめている。
「ねえ、今日ほんとにうち泊まる?」
留美が気楽な声で言った。
「もちろん。そのつもりだったでしょ?」
梓沙も、できるだけ同じ調子で返した。
「うん。まあ、事件の解決祝いとか言っちゃった手前、取り消すのも変だし」
留美はそう言って笑う。
“解決祝い”。
その言葉に、梓沙の胸の奥が少しだけざわついた。
祝う、というほど気楽になれているわけではない。
でも、そういう言葉で軽く包んでしまいたい気持ちもわかる。
本当に終わってくれるなら、それがいちばんいい。
2人は並んで廊下へ出た。
階段を下り、玄関へ向かうまでの間にも、すれ違う生徒たちの表情は、昨日までよりわずかに明るかった。
誰もが、終わったと思いたがっている。
玄関に着き、靴箱の前で2人はしゃがみ込んだ。
上履きを脱ぎ、ローファーへ履き替える。
外は小雨。
傘を差すほどかどうか迷う程度の細かい降り方だった。
その時だった。
ブブッ……。
梓沙のバッグの中で、短く震える音がした。
「あれ?」
留美が顔を上げる。
梓沙の手が、一瞬だけ止まった。
「電話?」
「……うん」
その返事は、ほんの少し硬かった。
バッグからスマホを取り出す。
画面を見た瞬間、梓沙の表情がわずかに固まった。
表示された名前を、留美は読み取れなかった。
けれど、“登録されている誰か”からの電話なのだと、それだけはわかった。
梓沙はすぐに視線を落とし、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
その声は、さっきまでの軽さを失っていた。
最初の数秒、梓沙は何も言わなかった。
相手の声を聞いているらしい。
その間に、背筋が少しずつ強張っていくのがわかる。
「え……」
小さく漏れた声。
それから、梓沙は反射的に留美から少し距離を取った。
靴箱の列をひとつ隔てるように、半歩、さらにもう半歩。
「う、うん……」
返事が上ずる。
聞き返しているのではない。
何かを咄嗟に受け止めきれず、それでも会話を切ることもできずにいる時の声だった。
留美は立ち上がり、靴を履いたまま梓沙の背中を見た。
小雨の匂いが、開いた玄関口の向こうから流れ込んでくる。
梓沙は通話口を手で少し隠すようにしながら、短く言った。
「……今は無理。うん……うん……」
そこで一度、言葉が途切れる。
その沈黙の後、梓沙はほとんど被せるように言った。
「わ、わかった。後でかけ直すから」
通話はそこで終わった。
スマホを耳から離す。
画面を見つめる。
指先が、わずかに落ち着かない動きをした。
「どうしたの?」
留美は、なるべく軽い調子で聞いた。
梓沙は顔を上げる。
けれど視線はすぐには合わなかった。
「ご、ごめん。ちょっと……今日、やっぱり無理かも」
「え?」
「お母さんからで……」
その言葉の後に、一瞬だけ詰まる。
「お姉ちゃんが……その、バイト先で怪我したみたいで。家に帰って来いって……」
説明は筋が通っていた。
梓沙には2つ上の姉がいるし、家の都合で予定が変わることだってある。
でも、さっきの電話の空気は“お母さんからの連絡”とは少し違ったように見えた。
梓沙自身も、それを誤魔化しきれていない。
「……大丈夫なの?」
留美が尋ねる。
「う、うん。たぶん。そんな大したことないって」
声はまだ少し揺れていた。
留美はその揺れを聞きながら、胸の奥に小さな違和感が残るのを感じた。
けれど、問い詰めるほどの確信はない。
それに、こういう時に無理に踏み込むのは違う気もした。
「そっか。じゃあ、うちのママにはそう言っておく」
「ごめん、本当に」
梓沙はそう言って、スマホをバッグへしまった。
その動作だけ、妙に急いでいた。
外の小雨が、白い地面を細かく濡らしている。
梓沙は傘を取ると、ほとんど逃げるみたいに玄関を出ていった。
「梓沙!」
留美が反射的に呼ぶ。
梓沙は一度だけ振り返った。
「また連絡する!」
そう言って、小走りのまま校門の方へ向かっていく。
細い雨の中に、その背中がすぐに溶けていった。
留美はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
胸の奥に残るのは、説明のつかないざわつきだった。
誰からの電話だったのか。
どうしてあんなに狼狽していたのか。
どれも、今はまだ聞けない。
でも、少なくとも――
“ただの家族からの電話”ではなかった気がした。
玄関には、また別の生徒たちの話し声が流れ込んでくる。
“解決祝い”みたいな軽い空気は、まだそこにあった。
なのに、その空気の一部だけが、今たしかにずれた気がした。




