第50話 焼け跡
水曜日と木曜日が休み。
その事実が、2人の胸の奥に重く沈んだまま――
古賀から一通りの話を聞き終えた小早川は、交通課の応接室を出る直前、同席していた辻田に向かって言った。
「ありがとうな。これで、俺たちが次にやるべきことがはっきりした。今度、焼き鳥でよければ俺から奢らせてくれ」
「おうよ。手羽先がうまい店な。そこだけは譲れねえぞ」
辻田は片目を瞑り、軽く笑った。
張り詰めた空気の中で交わされる、束の間の軽口だった。
*
2人は駐車場へ向かい、公用車に乗り込んだ。
ナビに入力したのは、履歴書に記載されていた住所。
福岡市博多区住吉●丁目●番●号
ベルハイツ201号。
原口和人の居住地。
エンジンが静かにかかる。
「宇都宮警視正の会見で、世間はもう事件が終わったと思っているでしょうね」
真田が窓の外を見つめたまま言う。
「もし本当にそうならいいんですが……」
声は小さい。
だが、その不安ははっきりしていた。
昨日から降り続いた雨は、徐々に弱まってきた。
小早川はワイパーの速度を一段落とす。
フロントガラスに残る雨粒は、もはや細かな点となって視界に滲むだけだった。
渋滞に巻き込まれることもなく、2人の車は正午前に目的地へ到着した。
車を降りた瞬間、小早川の足が止まった。
「な……」
言葉が、その先へ続かない。
差している安物のビニール傘の隙間から、冷たい風と細かい雨粒が入り込む。
だが、それを気にする余裕はなかった。
そこにあるはずのアパートが、なかった。
黒く焦げた木材の塊が、無残に積み上がっているだけだった。
鉄骨は歪み、壁だったはずのものは崩れ落ち、かつて「ベルハイツ」と呼ばれていた建物の面影は、ほとんど残っていない。
湿った空気の中に、わずかに焦げた匂いが混じっていた。
2人は、しばらくその場で立ち尽くした。
「びっくりしたでしょう?」
背後から声がした。
振り返ると、買い物帰りらしい60代ほどの女性が立っている。
手提げ袋を持ち、どこか話したがりの表情だ。
「ここのアパートね、この前火事で焼けちゃったのよ」
「火事……?」
小早川が即座に反応する。
「それは、いつ頃のことですか?」
「ええと……先週の木曜日だったかしら? 夕方だったわね。幸い、住んでる人はみんな留守だったみたい。亡くなった人がいなかったのは、本当に良かったわ」
「……ありがとうございます」
小早川は短く礼を言い、真田を促して車へ戻った。
エンジンをかける。
「何てこった……」
小早川はハンドルを握りしめた。
「嫌な予感がしますね」
真田が静かに言う。
「小早川さん、どちらへ?」
「消防局です。押収できそうな焼け残りがあればいいが……」
だがその声には、すでに別の色が混じっていた。
期待ではない。
悪い方へ寄っていく予感だった。
*
福岡市消防局。
受付で手続きを済ませ、2人は2階の応接室へ通された。
「県警の方が直接いらっしゃるとは。先週の住吉のアパート火災の件ですね?」
対応したのは、副署長の諏訪幸生だった。
「我々の見立てでは、放火の可能性が高いと考えています。死者が出なかったのは幸いでしたが」
「放火……ですか?」
真田が目を見開く。
諏訪は見取り図を広げた。
「出火元は2階、201号室付近と推定されています」
「201号室……?」
真田の声がわずかに掠れた。
原口の部屋。
「玄関付近から燃え広がっています。自然発火の可能性もゼロではありませんが、状況から見て放火の線が濃厚です」
小早川が身を乗り出す。
「201号室の焼け跡から、スマホが複数発見された形跡はありませんか?」
「スマホですか?」
諏訪は資料をめくる。
少しの間があった。
「いいえ。パソコンやテレビ、電子レンジなどの家電製品はありますが、スマホらしきものは回収されていません。居住者は全員留守でしたし、持ち出されていても不思議ではないでしょう」
「……」
小早川は俯いたまま、何も言わなかった。
放火。
出火元は201号室。
スマホは見つからない。
点ではなく、もう流れになっている。
「やっぱりそう来たか……」
小早川が、誰にともなく呟いた。
真田がゆっくりと顔を向ける。
「ええ。原口和人の情報が出た時点で、どこか整いすぎている気がしていました」
真田の声は静かだった。
だが、その静けさの中に緊張があった。
「ここへ来て、火事。しかも放火の可能性。証拠だけがきれいに消えていく」
小早川はようやく顔を上げた。
「原口が犯人だとしても、それだけじゃ終わらない。むしろ、原口に全部を背負わせて片づけるために、周りが動いてるように見える」
諏訪の説明は続いている。
だが、2人の意識はもう別の地点へ達していた。
何かが、確実に動いている。
しかも、それは偶然ではない。
証拠だけが先に消えていく。
その気味の悪さが、焼け跡の黒より濃く、2人の胸に残っていた。




