第47話 時期尚早
10月28日、水曜日――
昨日から降り続いている雨は、一向に止む気配を見せなかった。
窓ガラスを打ちつける大粒の雨が、灰色の街並みを滲ませている。
低く垂れ込めた雲が空を覆い、朝だというのに薄暗い。
まるで、街そのものが息を潜めているかのようだった。
実行役と見られる若者は、すでに病院へ搬送され、意識不明のままだった。
だが、動機も、被害者が選ばれた理由も、まだ何ひとつ解けてはいない。
午前9時を少し回った頃、真田瑞希と小早川陽介は、捜査本部責任者である宇都宮浩太郎の部屋を訪れていた。
室内は、驚くほど整然としている。
余計な装飾は一切なく、壁際の棚にも書類が正確に揃えられている。
その無機質な空間の中で、宇都宮のデスク脇にある交差した国旗と県警旗だけが、異様な存在感を放っていた。
「ほう? それで、捜査本部一丸となって、その若者の身元を徹底的に洗えと?」
宇都宮は、雨に曇る窓越しに傘の波を見下ろしたまま、振り返りもせずに言った。
2人の顔を見ようとしない。
その態度こそが、彼の意思表示だった。
背中越しでもわかる圧力が、部屋の空気を重くする。
「はい。何とかお願いできないでしょうか?」
真田が静かに言う。
その瞬間、宇都宮はゆっくりと体を回転させた。
高級そうな黒革の椅子に腰を下ろし、脚を組む。
眼鏡の奥の細い目が、冷たく真田を射抜いた。
「そもそも、その若者が真犯人であるならば、もう事件は解決したと考えるのが筋ではないのか?」
口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「無能と思っていた君たちの捜査が功を奏したわけだ。その点は、十分賞賛に値する。大変ご苦労だったね」
言葉とは裏腹に、嘲笑が滲んでいた。
だが宇都宮は、そこで終わらなかった。
「加えて、世間は不安がっている。ここで県警として明確なメッセージを出すことには意味がある。曖昧な態度を続ける方が、よほど無責任だろう」
真田は表情を崩さなかった。
だが胸の奥では違和感が消えていない。
犯人像も、動機も、被害者選定の理由も、まだ何ひとつ解けていないのに、“終わり”にだけ都合よく辿り着いている感じがしてならなかった。
小早川の拳がわずかに握られた。
「ありがとうございます」
小早川は正面を見据えたまま言う。
「ですが、例のメールの件にもっと早く着手していれば、警視正殿に無能呼ばわりしていただくお手間を省けたかと思うと、それだけが誠に残念でなりません」
皮肉は隠していない。
宇都宮の片眉が、わずかに跳ねた。
しかし小早川は続ける。
「おっしゃる通り、実行役は我々の手の内にあるも同然でしょう。ただし、今回の事件を引き起こした動機を含め、未だに解明されていない点が多いのも事実です。全貌を明らかにするためにも、もう一段踏み込む必要があると考えます」
宇都宮は鼻で笑った。
「何を言っている。そんなものは、真犯人である若者の回復を待ってから詰めればいい話だ」
さらに、思い出したように続けた。
「そうだ。この後、午前10時から記者クラブの連中を呼んである。“水曜日の絞殺魔”などと騒がれ、世間の注目を浴びた事件だ。ちょうど今日は水曜日。実に縁起がいい」
宇都宮の目がわずかに光った。
「犯人逮捕を高らかに宣言し、我が福岡県警の活躍を全国に示す」
その言葉に、小早川の顔色が変わる。
「ちょっと待ってください! それはあまりにも時期尚早です!」
声が室内に響く。
「時期尚早? いったい何が問題だ?」
「万に一つ、犯人に協力者がいたらどうするんですか? 会見の内容ひとつで、残っている端末が処分されるかもしれない。こちらがどこまで掴んでいるかを向こうに知らせることにもなる。まだ事件が終わっていない可能性も残っています」
宇都宮は椅子から立ち上がった。
ゆっくりと歩み寄る。
その前に、真田が静かに口を開く。
「現時点で濃厚なのは“実行役候補”の線です。共犯の有無も、動機も、被害者選定理由も未確定です。広報を打つには早いと考えます」
淡々とした声。
だが一歩も引いていない。
宇都宮は小さく笑った。
「無能ではない君たちの成果だろう? それとも、その万が一とやらが起きて、やはり無能だったと私に認めさせたいのか?」
至近距離で視線がぶつかった。
小早川は睨み返した。
「申し訳ありません……小早川さん」
真田が低く制する。
宇都宮は肩を竦めた。
「事件は“収束”に向かっている。私は今から記者会見の準備で忙しい。君たちの戯言に付き合っている暇はないんで、退散してくれたまえ」
そう言い捨てると、再び窓際へ歩き、雨に煙る街を見下ろした。
けれど、その“収束”という言葉は、城戸谷留美たちのようにまだ学校内で息を潜めている側の時間には、ひどく遠いもののようにも思えた。
背中越しの沈黙が、異様に長く感じられた。
真田と小早川は、何も言わずに部屋を後にした。
午前10時まで、あとわずか。
雨は、まだ止まない。
そして2人の胸には、事件が「収束へ向かっている」のではなく、むしろ妙に整いすぎた形で先へ進まされているような感覚だけが、重く残っていた。




