第43話 1時間の誤差
一方の真田は、県警の別棟へ足を運んでいた。
本庁舎から渡り廊下を抜けた先にあるその建物は、どこか独特の静けさを纏っていた。
1階には県警法医学研究所の分室があり、そのすぐ隣に室長・佐伯理香子の部屋がある。
真田は一度深呼吸をし、ドアを軽くノックした。
「はーい」
高く甘い声が返ってくる。
ゆっくりとドアを開けると、目に飛び込んできたのは、デスクに座ったまま手鏡を掲げ、化粧直しの最後のひと手間をしている佐伯の姿だった。
室内には、やや強めの香水の匂いが漂っている。
佐伯は真田の存在に気づいているはずだが、すぐには顔を上げない。
真田は姿勢を正した。
「捜査一課の真田です。お忙しいところ恐縮ですが、少しご相談がありまして参りました」
淡々とした声で告げる。
「あら? 何かしら?」
佐伯はようやく手鏡を机に置き、真田へ目を向けた。
真田は机へ近づき、持参したビニール袋を差し出す。
「小早川さんから、こちらを調べてほしいとのことです」
ロープと布。
交通課から預かった証拠品だ。
その名前を聞いた瞬間、佐伯の表情がわずかに変わった。
「えっ? 小早川くんの依頼なの?」
先ほどまでの緩さが消え、手鏡を机に伏せる。
「引き受けていただけますか?」
「もちろんよ。で、何を見ればいいの?」
佐伯は袋を手に取り、素材を透かすように観察する。
「あっ……その前に、小早川さんから、ひとつだけ先に確認してほしいと言われています」
「何? 答えられることなら答えるわ」
真田は手帳を開いた。
「佐野里穂の死亡推定時刻です。前の2件と比べて、どの程度のズレがあるか」
佐伯は少しだけ顎を引いた。
今度は、本当に仕事の顔になる。
パソコンを開き、該当項目をチェックする。
「……1時間くらいね」
「1時間……」
真田の鼓動がわずかに早くなる。
「法医学では、1時間以内の誤差は珍しくないの。体温、環境、体格、さまざまな条件で前後する。ただ……」
カーソルが別の項目へ移動する。
「彼女の鼻腔と口腔周辺から、ごく微量だけど睡眠薬と同一成分が検出されているわ」
真田は一瞬、息を止めた。
1時間のズレ。
微量の睡眠薬。
それだけなら、まだ単独の情報かもしれない。
だが、もし被害者が事前に眠らされていたのだとしたら。
犯行の手順は、前の2件と少し違っていたことになる。
そう考えると、第3の事件だけ予告電話がなかったことも、事故で時間が狂った可能性も、ひとつの線に寄り始める。
「……なるほど」
真田の声は低かった。
佐伯は袋の中のロープと布へ視線を落とす。
「それで、これを調べろって言ったわけね。睡眠薬の線と、物の使われ方を繋ぎたいんでしょう?」
真田は小さく頷いた。
「結果はどれくらいで出ますか?」
「本来なら明日の朝。でも……」
佐伯は口元を少しだけ上げた。
「小早川くんの依頼なら、今日の夕方までに仕上げるわ」
「ありがとうございます。きっと助かります」
真田は深く頭を下げる。
ロープの繊維。
布の残留物。
睡眠薬成分との関係。
もし、ここまで一致するなら――
あの1時間の誤差は、ただの誤差ではなくなる。
「では、結果をお待ちしています」
真田は足早に出口へ向かった。
「小早川くんに、よろしくねー」
背後から甘い声が飛ぶ。
廊下に出た瞬間、真田の表情は引き締まった。
1時間の誤差。
微量の睡眠薬。
そして事故。
まだ断定はできない。
だが、犯人の綻びがもしあるとすれば、それはこの“1時間”かもしれなかった。
小早川のもとへ急がなければならない。
このズレを、今夜のうちに形へ変えなければ、次の水曜日に間に合わなくなるかもしれないのだから。




