第41話 右手のホクロ
10月27日、火曜日――
午前9時過ぎ、小早川陽介が執務室に姿を現した。
普段なら誰よりも早く出勤し、コーヒー片手に資料へ目を通している男だ。
だがこの日に限っては、班の中で最後だった。
ネクタイはわずかに曲がり、トレードマークの寝癖はいつにも増して跳ねている。
顔色もどこか冴えない。
昨夜の青いカクテルの苦味が、まだ喉の奥に薄く残っている気がした。
あの苦味は酒のせいだけではない。
たぶん、ほとんど眠れていない。
「小早川さんが遅いなんて、珍しいですね。もしかして、昨夜は飲み過ぎましたか?」
真田瑞希が、からかうように声をかける。
「まあね……。ちょっと飲み過ぎました。でも二日酔いってほどじゃないですよ」
そう答えながら、小早川は机に鞄を置いた。
だが椅子に座ることもなく、そのまま真田の席へ歩み寄る。
「ところで真田さん、少し調べてみたいことがあるんですが」
唐突な切り替えに、真田がわずかに眉を上げる。
「佐野里穂が殺害された現場へ向かう途中、事故で渋滞に巻き込まれたって言ってましたよね? あれ、どんな事故でしたっけ?」
真田は瞬きをした。
「ああ……ありましたね。対向車線のワンボックスが無理に右折して、直進してきたトラックと衝突した事故だったと思います。でも、それが何か?」
小早川の目が、はっきりと光る。
昨夜、元妻・片桐春菜が口にした言葉。
――予期せぬ事故。
そして、規制線の向こうで潰れていたワンボックス。
「その事故、10月21日水曜日の夜ですよね?」
「ええ、たしかそうです」
「交通課に記録があるはずだ。真田さん、付き合ってもらえますか?」
声に、抑えきれない熱が混じっていた。
酔いの残りではない。
一度掴みかけた糸を、今度こそ離したくない人間の顔だった。
2人は急ぎ足で1階の交通課へ向かった。
*
交通課の一角。
資料の山に埋もれるように座っている男がいた。
「おい、辻田!」
小早川が声を張る。
辻田謙一警部補。小早川の同期だ。
呼ばれた辻田は肩をびくりと震わせ、しかめ面で立ち上がった。
「いきなり現れるなよ……心臓に悪い」
「ごめんよ。ところで、10月21日夜のワンボックスとトラックの事故資料、見せてもらえないか?」
辻田は一瞬眉をひそめた。
「ああ……あの事故か。ひどかったぞ。ワンボックスの運転手は若い男だ。奇跡的に一命は取り留めたが、今も意識不明だ」
「身元は?」
「免許証は不携帯。他の身分証もなし。身内も名乗り出ていない。しかも車両は盗難車だった」
その言葉に、小早川の胸がわずかに高鳴った。
辻田は棚から資料を取り出し、テーブルへ運んだ。
「これが一式だ。何かあるんだろ?」
「悪いな」
小早川と真田は資料に目を通す。
写真。
事故現場見取り図。
車両損傷状況。
救急搬送記録。
ページをめくる音だけが続く。
「……ずいぶん派手にやってるな」
小早川が低く呟いた、その直後だった。
真田の指先が、ある欄の上で止まる。
「……ここ」
小早川が覗き込む。
指差した先には――
【身体的特徴:右手甲部に直径約8ミリの黒色母斑あり】
「右手の甲に、大きなホクロ……?」
真田が息を呑む。
「飛ばし業者の山邊が言ってた客の特徴と一致しますよね」
盗難車両。
無理な右折。
身元不明。
そして、右手のホクロ。
点が、線になり始めていた。
小早川は辻田へ向き直る。
「所持品は?」
「保管してる」
辻田は段ボール箱を抱えて戻る。
中からビニール袋に密封された品々が取り出され、テーブルに並べられた。
目を引いたのは――
細いロープ。
小さな布。
スマホ。
小早川はひとつひとつを見つめる。
ロープ。
布。
どれも、嫌な用途しか思い浮かばない。
まだ断定はできない。
だが、“ただの私物”として片づけるには不穏すぎた。
スマホはもっと直接的だった。
通話履歴。
送受信履歴。
そこに何かが残っていれば、第3の事件は一気に繋がる。
「収穫がありそうだな。辻田、この3点、鑑識に回したい。書類を切る」
「ああ、構わない」
小早川はロープと布を真田へ手渡した。
「真田さん、これを監察医の佐伯さんへ」
「小早川さんは?」
「……佐伯さん、ちょっと苦手で」
真田は小さく笑う。
「わかりました。では別行動ですね」
「お願いします。佐伯さんには――」
小早川は低い声で、確認してほしい内容を伝える。
真田は静かに何度も頷いた。
右手のホクロ。
身元不明。
予告電話なしの3件目。
もし、この男が犯人なら。
いや、まだ決めつけるには早い。
だが、ここまで揃っていて、見過ごせる線ではない。
昨夜の青いカクテルの苦味は、もう消えていた。
代わりに胸にあるのは、鋭く澄んだ確信と、それ以上に強い焦りだった。
次の水曜日まで、もう時間がない。
この線を、今日中にもう一段先まで押し込まなければならない。
事件は、ようやく動いた。
だからこそ、もう遅れるわけにはいかなかった。




