第40話 ブルークレイビング
青い照明の下で、オレンジ色の“サンライズ”はグラスの底でわずかに揺れていた。
先ほどまでの会話が、まだ空気の中に残っている。
事故の可能性。
犯行直後、電話をかける前に起きた予期せぬ出来事。
その推測を口にした後、春菜は少しだけ視線を落とした。
指先が、左皿のコインの縁をそっとなぞる。
そして、不意に話題を変えるように言った。
「……陽介。今日は、私の方からあなたに話したいことがあるの」
小早川は、嫌な予感を覚えた。
長年の経験が告げる、逃れようのない予兆だった。
「事務所の人から、結婚を前提にって言われてるの。子どもたちのことも受け入れるって……」
そこで春菜は一度だけ言葉を切った。
ほんの短い間だったが、そのためらいの方が、続く言葉より先に意味を持った。
「私、この話を受けようと思う」
言葉は穏やかだった。
だが、その一言が鋭利な刃物のように胸へ突き刺さる。
小早川は正面を向いたまま動かなかった。
視線の先には、青く照らされた酒瓶の列がある。
世界の音が遠のいた。
シェイカーの氷の音だけが、やけに鮮明だった。
胸の奥が一瞬で冷えた。
奈落へ突き落とされたような感覚。
それでも彼は、刑事としての仮面を外さなかった。
グラスを持ち上げ、残っていたカクテルを喉へ流し込む。
「……そうか」
短い言葉だった。
だが、その声はわずかに掠れていた。
沈黙が流れる。
「同業者なら、今度はうまくいくかもしれないな。……幸せになれ」
一度だけ春菜を見た。
そしてすぐに視線を戻した。
「ありがとう……。子どもたちとは、これまで通り会っていい。でも私とは、もう会わない方がいいと思う」
春菜は静かに立ち上がる。
「さっき置いたコインは、私の奢りよ。あなたの好きなやつを飲んで」
申し訳なさそうに微笑み、背を向ける。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
隣の席が空いた。
小早川はしばらく、両腕をカウンターに預けたまま動かなかった。
青い光が、背中を静かに染めていた。
「完全に振られちまったな……」
小さく呟く。
天秤は左側に傾いている。
右皿には、自分が置いたコイン。
左皿には、春菜の分。
均衡していたものが、今崩れた。
家庭も、妻も、今の延長線にあるはずだった時間も。
もうこちら側へは戻ってこない。
小早川は天秤を見つめたまま、ゆっくり顔を上げる。
「今度は、“青い色のやつ”を2つ頼む」
バーテンダーが目を細めた。
「本日、青は飲まれないのでは?」
「1つは、あいつの奢り分。もう1つは、俺からあんたへの奢りだ」
そう言ってから、小早川はほんの少しだけ間を置いた。
「……避けてても、どうせ目の前にある」
右皿へコインを2枚投げ入れた。
金属が触れ合う音。
天秤は、ゆっくりと水平に戻った。
バーテンダーは無言で一礼する。
シェイカーにジンとブルーキュラソーが注がれる。
氷が入り、いつもより長く、丁寧に振られる。
青い光の中で、液体が混ざり合った。
小早川は静かに目を閉じた。
失ったもの。
残ったもの。
そして、これから向き合う事件。
青は、苦い。
だが、逃げるわけにはいかない。
シェイカーの音が止む。
透明なグラスが、カウンターの上へ置かれる。
鮮やかな青。
まるで、酔いも甘いもすべてを飲み込んでしまいそうな深い色。
バーテンダーが口を開く。
「お待たせいたしました。“ブルークレイビング”でございます」
小早川は、その青をしばらく黙って見つめていた。
見つめ続けるしかなかった。
失ったものからも、
これから失うかもしれないものからも、
もう目を逸らせないと知っていたからだ。




