第39話 サンライズ
10月26日、月曜日――
「次の水曜日まで、あと2日か……。それにしても、目を見張るような成果が出ていないのが悔しいよな。他の班も、似たり寄ったりらしいしな――」
安山潤一郎が、椅子の背にもたれながら小さく愚痴をこぼした。
5班の執務室には、紙の擦れる音とキーボードを叩く音が絶え間なく響いている。
捜査員たちは連日、各方面を走り回っていた。
聞き込み、裏取り、過去の類似事件の洗い直し。
日曜日に拾った線も、月曜日の昼にはまた細くなる。
有力情報はことごとく空振りに終わり、焦燥だけが静かに積み重なっていく。
週明け早々の会議では、またしても宇都宮浩太郎の怒声が飛んだ。
会議室での重く沈んだ空気は、そのまま執務室まで持ち帰られてくる。
「今日は矢野くんが当直だよな? だったら、残りで軽く夕飯でもどうだ? どうも根を詰めすぎるとストレスが溜まっていけない。真田さん、いかがですか?」
安山は矢野一哉に向かって片手を上げ、「すまん」と目で詫びた後、真田瑞希に提案した。
「そうですね。ヤスさんのおっしゃることにも一理あります。矢野さんがよければ、少しだけ行きましょうか?」
真田は柔らかく微笑みながら、ちらりと矢野を見た。
矢野は自分の顔の横で親指と人差し指で丸くしてみせる。
「ありがとう、矢野さん。埋め合わせは今度必ずするわね。須賀さんと清水さんは?」
「いいですね。今日くらいは少し羽を伸ばしましょう!」
「私も大丈夫です」
須賀修一と清水楓もすぐに賛同した。
「小早川さんも、もちろん大丈夫ですよね?」
真田が最後に声をかける。
だが小早川陽介は、資料から視線を上げた後、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「いや……。せっかくのお誘いですが、今日は先約があるんですよ。また次の機会に誘ってください」
穏やかな断り方だった。
けれど、その穏やかさの奥に、誰にも触れられたくない夜があるようにも見えた。
当然乗ってくると思っていた真田は、わずかに目を見開いた。
「そ、そうなんですね。じゃあ、今回は4人で行ってきますね……」
壁の時計は、午後7時30分を指していた。
*
小早川が向かったのは、福岡市中央区薬院にあるカクテルバーだった。
通りから一歩入った静かな路地。
木製の扉を開けると、控えめなジャズが耳に届く。
店内はやや仄暗く、天井からは青いライトが柔らかく降りていた。
磨き込まれたカウンターの中央には、小さな金属製の天秤が置かれている。
この店では、換金したコインを天秤の皿に置いて注文する。
隣の客がつい釣り合いを取りたくなる――そんな店主の小粋な悪戯だった。
時間が早いこともあり、客は疎らだった。
左右のテーブル席に数組。カウンターにはまだ誰もいない。
小早川はいちばん右の席に腰を下ろした。
コインに換金し、天秤の右皿に2枚置く。
「今日は“サンライズ”を頼むよ」
白髪を後ろで束ねた年配のバーテンダーが、わずかに眉を上げた。
「おや? 珍しいですね。いつもは“青い色のやつ”がお好きなのに、今日はサンライズですか?」
「最近な……どうも青が少し苦手になってね。この照明も、どうにかならないか?」
「店のコンセプトでして」
「冗談だよ。ただ、今日口に入れるものは青を避ける」
バーテンダーは微笑み、シェイカーを振り始めた。
氷のぶつかる乾いた音が、規則正しく店内に響く。
差し出されたグラスには、濃いオレンジ色が美しく層を描いていた。
夜明けを思わせる色合いだった。
その瞬間――
「ごめんね。遅れちゃった……」
左隣に女性が腰を下ろした。
落ち着いた雰囲気のショートカット。紺のジャケットの襟元には、天秤と同じマークのバッジ。
「珍しくおまえの方から呼んで、しかも遅れるとはな」
「実績がある人に言われたくないわね」
軽く笑い合う。
「峻介と夏菜は元気か?」
「ええ……」
短い返答。
その奥に、わずかな揺らぎがあった。
片桐春菜。
小早川の元妻で弁護士。今も子どもを通じて、定期的に会っている。
「私も同じものを」
春菜はコインを左皿に2枚置く。
天秤は水平になった。
少しの沈黙の後、春菜が口を開く。
「例の女子高生連続殺人事件……あなたも担当しているんでしょう?」
小早川はグラスを指先で回しながら答えた。
「ああ。だが行き詰まってる」
「どう詰まってるの?」
「第3の事件だけ、予告電話がなかった」
小早川はそこで言葉を切った。
あえて整理しているような口調だったが、その実、同じ違和感を何度も噛み続けている声でもあった。
「そこが引っかかってる。あれだけ段取りを組む犯人が、一回だけ手順を飛ばすか?」
春菜はしばらく考え込んだ。
弁護士らしい、感情をいったん脇へ置く沈黙だった。
「計画性が高いなら、“忘れた”とは考えにくいわね」
「だろ?」
「だったら、電話をしたくてもできなかった可能性の方が高いんじゃない?」
小早川の指先が止まる。
「例えば?」
春菜は左皿にコインを2枚置いた。
天秤が左に傾いた。
「犯行直後に、予期せぬ事故に遭ったとか」
その一言で、小早川の脳裏に、今朝たまたま目にした規制区間の映像が甦った。
フロント部分を大きく潰したワンボックス車。
砕け散ったガラス。
規制線の向こうに滲む赤色灯。
もし、あれが――
小早川はグラスを傾け、サンライズを喉へ流し込んだ。
甘さの奥に、わずかな苦味がある。
「もしかすると……いや、まさかな……」
そう呟きながらも、その可能性は頭から離れなかった。
今の彼にとって、この事件はただの担当案件ではない。
止められなかったものを、次こそ止めるための執着に近づいていた。
青い照明の下で、夜は静かに更けていく。
グラスの中の橙だけが、小さな夜明けみたいに揺れていた。
けれどその“夜明け”は、救いの色ではなかった。
むしろ、小早川の中で形になりかけている別の仮説を、静かに照らし出す光だった。
もしその仮説が正しいなら、まだ終わっていない危険は、結局また学校側――城戸谷留美たちの時間へ戻ってくることになる。




