第38話 スカートを取られないように
梓沙は重い足取りで部室を出た。
背中に、さっき奈緒が言った
「何かあったらすぐ戻ってきなよ」
という声がまだ薄く残っている。
ただの文化祭の話なら、こんなふうに胸がざわつくはずはない。
そう思うのに、理由のわからない嫌な感じだけが消えなかった。
向かうのは、同じ北校舎の1階にある生徒会室――入学以来、足を踏み入れたことのない場所だ。
ミス部と同じ建物にあるにもかかわらず、梓沙を含む多くの生徒にとって、それは縁のない空間だった。
閉ざされていて、外から様子は見えない。
だからこそ噂だけが勝手に膨らむ。
厳格。
冷酷。
絶対。
そんな言葉が頭の中をかすめる。
考えすぎだとわかっていても、足取りは重い。
やがて、生徒会室の前に立った。
胸の鼓動が、速い。
すぐにはノックできず、一度だけ深く息を吸う。
指先が少し冷えていた。
コンコン。
「どうぞ」
高く澄んだ声。
生徒会長の甲斐瑠璃子だ。
「し、失礼します。2年A組の中林です。きょ、今日は何かありましたか?」
声がわずかに震える。
扉を開けた瞬間、甘い香りが鼻を打った。
室内には、至るところにドライフラワーが飾られている。
濃い。
甘すぎる。
頭の芯がぼうっとする。
無意識に、一歩だけ足が止まった。
奥の机の先。
回転式の椅子に背を向けて座る瑠璃子。
その隣には、秘書のように控える下級生。
瑠璃子の父は県内有数の資産家であり、学校にも多額の寄付をしている。
その家柄と、本人の凛とした雰囲気。
他の生徒とは明らかに違う存在感があった。
椅子がゆっくりと回転する。
瑠璃子が振り向いた。
目を細め、柔らかく微笑む。
「わざわざ来てもらってごめんね。実は来月の文化祭の件で、あなたたちミステリー研究部にも少し相談したいことがあって」
声音は穏やかだった。
生徒会長らしい、丁寧な切り出し方に聞こえる。
晴明女子高の文化祭は、毎年11月第3土曜日と日曜日に開催される。
人気校の一大イベントだ。
だが今年は、連続殺人事件が未解決のままだ。
それでも開催するつもりらしい。
「えっ? で、でも私たち、そんな文化祭に出るような活動とかやってないし……」
戸惑いが先に立つ。
だが瑠璃子は笑顔を崩さなかった。
「やってるじゃない。事件を推理していく過程をペーパーにまとめて掲示すれば、それって面白いでしょう?」
一拍。
「ネタはいくらでもある。今実際に起きている連続殺人事件。みんな怖がっているなら、怖さを表に出しちゃえばいい」
さらに一拍。
「支配できるでしょう?」
空気が冷えた。
言葉の温度が、異様に低い。
梓沙は息を呑む。
事件は、ネタじゃない。
亡くなった子たちは、材料じゃない。
「無理です。あの子たちは、ネタじゃありません!」
思わず、声が強くなる。
静まり返る室内。
ドライフラワーの甘い香りだけが、やけに濃く漂っていた。
その甘さの奥で、瑠璃子の瞳がわずかに細められる。
すると瑠璃子は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
笑顔は崩れない。
そのまま、音も立てずに梓沙の方へ歩み寄ってくる。
距離が縮まる。
一歩。
また一歩。
気づけば、息がかかるほどの至近距離だった。
瑠璃子はわずかに顔を傾け、梓沙の目を食い入るように見つめた。
その視線には、逃げ場がない。
やがて、唇がわずかに動く。
「そうね。あなたの言うとおりだわ。ごめんなさいね。不謹慎なことを言っちゃって……」
蚊の鳴くような、小さな声。
だが、耳元で直接響くその囁きは、異様な重みを帯びていた。
梓沙は思わず身震いした。
蛇に睨まれた蛙のように、動けない。
視線を逸らすことさえ許されない。
その時――
瑠璃子の指先が、梓沙のスカートの裾に触れた。
布をなぞる。
ごくわずかな力で、裾を引く。
その微かな感触が、まるで直接皮膚に触れられたかのように伝わった。
梓沙の呼吸が浅くなる。
目の前の瑠璃子の瞳。
そこには、固まった笑みを浮かべた自分の顔がはっきり映っている。
逃げられない。
「それにしても、うちの学校のスカートって、結構短くしている子が多いよね」
声の調子は穏やかだった。
だが、目は笑っていない。
「脚がきれいな子が多いから、その方がいいんだよ。脚はね……見られるほど磨かれるの――」
意味深な間。
梓沙の喉がひくりと鳴った。
「……は、はい?」
辛うじて出た声は掠れていた。
瑠璃子の口元から漂う甘い香りが、鼻腔を刺激する。
ドライフラワーの濃い匂いと混ざり合い、頭の芯をぼんやりさせる。
現実感が薄れた。
「そう言えば、今回の連続殺人事件の犯人って、制服のスカートだけを持ち去っているらしいわね」
梓沙の背筋が凍った。
瑠璃子の指先が、もう一度、裾を軽く弾いた。
「あなたも――このスカート、取られないように……ね!」
最後の「ね」だけが、わずかに強く響いた。
次の瞬間、瑠璃子はくるりと背を向ける。
何事もなかったかのように、ゆったりと椅子へ戻っていった。
空気だけが、重く残された。
「も、もう結構ですよね? 失礼します!」
梓沙はほとんど反射的に言葉を吐き出した。
ようやく体が動いた。
心臓の音が耳の奥でうるさい。
背を向けたまま、生徒会室の扉へ向かう。
ノブを握る手が震えていた。
扉を開けた瞬間、廊下の空気が流れ込んできた。
冷たい。
それなのに、胸の奥は熱を帯びている。
振り返る勇気はなかった。
ただ足早に、その場を離れる。
生徒会室の引き戸を開け、廊下へ出る。
ひやりとした空気が肺に入った瞬間、ようやく少しだけ呼吸が戻った。
それでも、スカートの裾に残った感触だけは消えそうになかった。
甘い香りも、まだ鼻の奥に貼りついている気がする。
怖い。
でも、それだけじゃない。
あんなふうに怯えさせられたことが、悔しかった。
梓沙はその感情ごと抱えたまま、北校舎の古い廊下を早足で歩き出した。
瑠璃子の言葉が、何度も頭の中で反復される。
――取られないように。
それは忠告なのか。
それとも、宣告なのか。
そして梓沙は、はっきりと理解した。
メールの不安と、瑠璃子の圧力。
別々だったはずの恐怖が、ゆっくりと一本の線で結びつき始めていることを。
この学校のどこかに、“何か”がいる。
確実に、自分を見ている“何か”が。




