第37話 怖さを形に
10月26日、月曜日――
放課後の廊下は、どこか音が薄かった。
事件が続いてからというもの、部活動へ向かう足音や笑い声が、何となく減っているようにも思える。
城戸谷留美と中林梓沙が体育館前を通りかかった時、入口の脇に貼られた紙が目に入った。
【チアダンス部は、当面の間活動を自粛します】
その紙の前に、関谷コーチが立っていた。
黒いジャージの上に薄手のカーディガンを羽織り、顧問の宮田先生と小声で何かを話している。
留美が一瞬だけ足を緩めた。
ほんの一瞬だったが、そこには“読まなくてもわかっていたことを、改めて文字で見せられた”ような鈍い痛みがあった。
その気配に気づいたのか、関谷は会話を切ってこちらを見た。
そして、ほんの小さく会釈した。
留美も反射的に頭を下げる。
それだけだった。
それだけなのに、体育館の前に人の声がないことの方が、妙に胸に残った。
「……まだ無理そうだね」
梓沙が貼り紙を見たまま、ぽつりと呟く。
留美は答えなかった。
“部活が止まっている”という事実を文字で突きつけられると、事件がまだ終わっていないことを思い知らされる。
戻ればいつもの放課後がある、とはもう言えない。
そのことが、じわじわと重かった。
2人はそのまま、足を止めずに校舎の奥へ向かった。
*
梓沙は留美と別れると、北校舎3階にある“ミス部”の部室へ行った。
そこには副部長の貝原奈緒だけがいた。
本校舎の方からは、まだ少しだけ賑やかな声が届いてくる。
けれど北校舎まで来ると、そのざわめきもかなり遠い。
古い窓枠の隙間から入り込む風がカーテンを揺らし、廊下の床板が誰かの足取りに合わせて軋む。
人の気配が薄いぶん、物音のひとつひとつがやけに耳についた。
「他の子たちは?」
梓沙が尋ねる。
「梢は英検準2級の勉強。沙知絵は古典の先生に捕まってる。香里奈は模試の復習で呼び出しだって。みんな、今日は来ないよ」
奈緒は肩を竦めた。
「みんな真面目だよね……」
梓沙は苦笑する。
事件のことばかり考えている自分が、逆に少し浮いて見えるような気さえした。
「梓沙こそ。ここ最近ずっと顔色悪いよ」
奈緒は紙コップに紅茶を注ぎながら言った。
「無理してない?」
「してないよ」と即答しようとして、梓沙はほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
していないわけがない。
青い写真が届いて以来、頭の中がずっと落ち着かない。
夜も何度か目が覚める。
留美と話していても、急に胸の奥が冷たくなることがある。
それでも、それを奈緒に説明する気にはなれなかった。
「平気。ちょっと寝不足なだけ」
言い終えた後、自分でも誤魔化しが浅いとわかった。
だが奈緒は、それ以上は踏み込まなかった。
こういう時に余計に追及しないのが、彼女のいいところだった。
「それより、例の図形の話だけど……」
梓沙は話を切り替えるように、テーブルへ肘をついた。
「うん。私もさ、あれ考えてた」
奈緒は紅茶を一口飲み、窓の外へ視線を向けた。
「犯人ってさ、怖さを形にしてるのかもね」
その一言に、梓沙の手が止まる。
「形に?」
「うん。誰が、どこで、どういうふうに死んだか――そういうのを、ただ隠すんじゃなくて、並べて見せてる感じ」
奈緒の言葉は軽くなかった。
推理好きの興奮ではなく、本当に気味悪がっている声だった。
「それを“意味のある配置”にしてるなら、相当悪趣味だよね」
梓沙は眉をひそめる。
それは、ミス部が今やっていることにも近かった。
被害者の名前を書き出し、地図に印をつけ、規則を探す。
正しいことのはずなのに、時々、自分たちまで犯人の視線に近づいていくような気がして嫌になる。
「被害者は、並べて眺めるためのものじゃないのに」
ぽつりと出た言葉に、奈緒が梓沙を見た。
梓沙は自分でも少し驚いていた。
怖いだけではなく、腹が立っている。
事件そのものにも、
噂に群がる空気にも、
そして怖さを“見える形”にしてしまう犯人にも。
「……でも、梓沙は考えるのやめないでしょ?」
奈緒が静かに言う。
「やめた方がもっと怖いから」
梓沙はすぐに答えた。
それは本音だった。
考えれば考えるほど怖くなる。
でも、考えないでいると、もっと得体が知れなくなる。
だから梓沙は、怖さを言葉にして、形にして、自分の届くところまで引き寄せようとしている。
その時――
廊下の向こうで、ぺたり、と乾いた足音がした。
2人が同時に顔を上げる。
この時間、他の部員が来る予定はない。
教師の見回りにしても、まだ少し早い。
足音が、少しずつ近づいてくる。
靴の底が、古い床板の上でぺたり、と小さく鳴る。
部室の前で音が止まる。
梓沙の胸の奥が、意味もなくざわついた。
青い写真が届いてからというもの、こういう“呼ばれる感じ”そのものが、少し嫌になっている。
誰かに名指しされること自体が、秘密を掴まれた時の気配に似ていた。
やがて、部室の引き戸が静かに開いた。
顔を覗かせたのは、生徒会の1年生だった。
どこか緊張したような面持ちで、戸口に立っている。
「あの……2年A組の中林先輩、いらっしゃいますか?」
梓沙が思わず目を瞬かせる。
「え? 私?」
「はい。会長が、生徒会室まで来てほしいそうです。文化祭の件で、お話があると……」
奈緒が梓沙を見る。
ほんの一瞬だけ、部室の空気が止まったように感じられた。
「文化祭?」
梓沙は聞き返したが、1年生は小さく頷くだけだった。
胸の奥が、嫌な感じにざわつく。
理由はわからない。
でも、行きたくないと思った。
さっきまで“怖さを形にする”という話をしていたばかりだ。
その直後に、生徒会長の瑠璃子から呼び出し。
偶然にしては、妙に気味が悪い。
それでも、断るわけにもいかなかった。
「……わかった。すぐ行く」
そう答えると、1年生は軽く頭を下げて去っていった。
奈緒が、少しだけ眉をひそめる。
「何だろうね。今さら文化祭の話?」
「さあ……」
梓沙はそう答えたが、声は少し硬かった。
「行ってくる」
鞄を持ち上げる。
部室を出る直前、奈緒が
「何かあったらすぐ戻ってきなよ」
と軽く言った。
その何気ない一言が、なぜか少しだけありがたく感じられた。
梓沙は短く頷き、北校舎の薄暗い廊下へ足を踏み出した。




