第35話 誰にも内緒
2年前の夏休みが終わろうとする頃――
あの青い写真を見た瞬間、梓沙の中で最初に開いたのは、景色ではなく空気だった。
教室とは違う、ひどく静かな空間。
効きすぎたエアコンの冷気。
半袖の腕に纏わりつく寒さ。
それでも寒さなんて意識の外に押しやってしまうほど、何かに夢中になっていた自分。
視界の奥に、白いホワイトボードが浮かぶ。
あれは、箱崎にあったT塾の教室だった。
梓沙は当時、福岡県内でも屈指の偏差値を誇る晴明女子高を目指していた。
勉強で大きく躓いたことはない。
けれど、だからといって努力を怠るつもりもなかった。
親友の留美も、同じ高校を目指していた。
だから2人で塾へ通うことにした。
少し遠かったが、評判も実績も悪くない。
それがT塾だった。
最初は、ただそれだけだった。
同じ高校へ行くため。
同じ未来へ進むため。
梓沙の目的は、たしかに勉強だった。
でも、その夏の途中から、全部の重心が少しずつずれ始めた。
恋をしたのだ。
相手は、同じ塾に通う3つ年上の男子。
大塚隼人――今は、留美の彼氏になっている人。
梓沙は知っていた。
留美が隼人に好意を抱いていたことを。
知っていたのに、気づいたら自分も彼を目で追っていた。
留美と同じ高校を目指している。
勉強でも負けたくない。
なのに、恋まで同じ相手を見てしまった。
それは幼い対抗意識だった。
でも当時の梓沙にとっては、冗談では済まないくらい真剣だった。
あの日――
留美は体調不良で、塾を休んでいた。
偶然だった。
けれど、梓沙にはその偶然が、運命の隙間みたいに思えた。
他の生徒たちが帰った後、教室には夏の終わりの匂いだけが残っていた。
空は夕方に傾き、窓の外の色もゆっくり変わり始めていた。
梓沙は、思い切って別の部屋で講義を受けていた隼人を、塾の外にある小さなベランダへ誘った。
2人きりだった。
最初は、本当に何でもない会話だったはずだ。
受験の話。
部活の話。
将来の話。
でも、話が切れて沈黙が落ちた瞬間、空気の質が変わった。
ぬるい風が頬を撫でる。
ベランダの手すりは、少し錆びていた。
立体駐車場の外階段が見える。
手前には、古びた一軒家。
夕方の街が、青く沈み始めていた。
その景色の中で、距離だけがほんの少し近づいた。
息が触れる。
その瞬間、理性が解けた。
梓沙の方から、隼人の唇を奪っていた。
ほんの一瞬のつもりだった。
でも、一度触れてしまったら、もう戻れなかった。
隼人は戸惑っていた。
それでも、すぐには拒まなかった。
離れようとも、しなかった。
ぎこちない、でも思ったより長いキスだった。
何度も息を継ぎながら、それでも離れられない。
心臓の音がうるさい。
指先が震える。
夕焼けの色まで、熱を持って見えた。
そして、次の瞬間にはもう、梓沙はわかっていた。
――やってしまった。
留美のいない日に。
留美の好きな人に。
自分から。
それでも、その感触は鮮明で、忘れたいのに忘れられなかった。
ベランダの柱の陰に隠れるように、2人はしばらく身を寄せ合っていた。
隼人は少し顔を赤らめていた。
それを誤魔化すみたいに、軽い声で言った。
「誰にも内緒だぜ……」
冗談のような口調だった。
でも、その一言は梓沙の胸に深く沈んだ。
誰にも内緒。
その言葉は、そのまま2人だけの秘密の合図になった。
そして同時に、梓沙にとっては、親友への裏切りを閉じ込める蓋にもなった。
それから時は流れた。
留美と隼人は恋人同士になった。
幸い、あの出来事が留美に知られている気配はない。
けれど梓沙にとって、あの記憶は甘いだけでは終わらなかった。
それは、親友を裏切るかもしれない秘密。
見ないふりをして、胸の奥へ押し込めた時間。
“なかったこと”にはしていないのに、
“掘り返してはいけないもの”として封じた思い出だった。
だから、青い写真を見た瞬間に怖かったのは、景色そのものではない。
その景色が、まったく同じだったからだ。
立体駐車場。
錆びた手すり。
古びた一軒家。
夕暮れに沈む、あの青い色。
先ほどスマホに届いた写真は、T塾のベランダから見えたあの夏の景色と、寸分違わなかった。
偶然のはずがない。
忘れたはずの過去が、今また静かにこちらを見返している。
写真を見た恐怖は、もう別の質に変わっていた。
青くて不気味だから怖いのではない。
あの“内緒”が、そこから蘇ってしまったから怖い。
封じたはずの時間が、再び動き出そうとしていた。




