第33話 白い瞳と緑の瞳
3件目の殺人事件が発覚した、ちょうどその頃――
JR山手線・田町駅の地下深く。
地図には記されていない区画の一角に、その部屋はある。
中央には、日本列島のミニチュアを据えた艶やかな黒檀の丸卓。
それを囲むように、背もたれの高い椅子が9脚、均等な間隔で置かれていた。
最奥の席に深く腰を下ろしているのは、不動産投資家・白石翔流――ケテル。
そのやや後方には、ノートパソコンを片腕に抱えた葛木が、いつものように隙のない姿勢で立っていた。
「葛木さん、今何時ですか? 今日は、うっかりして腕時計を忘れてしまいました。いろいろと考え始めると、これだからいけない……」
ケテルは目を閉じたまま言う。
「はい。ちょうど午後1時50分を回ったところです」
葛木の返答は静かだった。
「約束の時間の10分前……ということは、彼女の性格からして、そろそろ――」
その瞬間、正面の壁が音もなく左右へ割れた。
高いヒールの音が、静かな室内に響く。
入ってきたのは、占い師・緑川陽真里。
ケテルはゆっくりと目を開いた。
左目の“偽装”は、すでに外れている。
そこには、雪のように白い瞳が静かに光っていた。
「さすがですね。時間の10分前には必ずお見えになる。こうして生身で顔を合わせるのは久しいですね――“ネツァク”」
ケテルがそう呼ぶと、緑川はわずかに微笑んだ。
「本当ですね、ケテル。普段なら直接顔を合わせる機会はないはずですが、この場所にお呼びになるとは、よほどの理由があると読みますが?」
落ち着いた声でそう返し、ケテルから見て右手側、3つ先の椅子へ腰を下ろす。
「今日は東京にいらしていたのでしょう? また“占い師コンペ”の全国ツアーの一環ですか? あなたはいろいろな場所に姿を現すのがお好きなようだ」
含みのある言い方だった。
だが、緑川――ネツァクは気に留める様子もなく言った。
「今日は日本橋のビルで取材を受けていたのです。それをご存知で、わざわざお呼びになったのでしょう? 私がいる仙台は魅力的な街ですが、東京にはまた別の刺激があります。自己啓発にもなりますし……ああ、そうだ――」
そう言って、左目を覆っていた眼帯を外す。
そこに現れたのは、深く澄んだ緑色の瞳。
彼女もまた、ヘテロクロミアだった。
白い瞳と、緑の瞳。
2つの異なる色が、卓を挟んで静かに向き合う。
「なるほど。では最近は福岡へも、自己啓発で?」
その一言で、ネツァクの眉がわずかに動いた。
短い沈黙。
どこからともなく響く機械音だけが、やけに耳につく。
やがてネツァクは、薄く笑った。
「ええ。たしかに福岡にも足を運びました。それにしても、よくご存知ですね?」
「お忘れですか? 私は“殻”のみならず、あなたたちの痕跡も感知できます。九州は本来“ケセド”の領域です。1つであるはずの痕跡が2つ存在すれば、それは異常だ。そして同じ時期、本来あるべき東北には、あなたの気配がなかった」
淡々とした指摘だった。
ネツァクは目を細める。
「ケテル……何をおっしゃりたいのですか?」
ケテルは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと吐き出す。
「ネツァク……我々が運命に関与することは許されない。なぜ、手を出したのですか?」
静かな叱責だった。
怒鳴りも、威圧もない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
ネツァクはすぐには答えなかった。
視線を天井へ逃がし、沈黙のまま数秒をやり過ごす。
その時間の方が、長い説明よりも彼女の内側を語っていた。
やがて、ゆっくり視線を戻す。
「……やはり、そのことですね」
声は落ち着いている。
だがその落ち着きは、感情を抑え込んだ上に乗っていた。
「他の7人には伏せていましたが、あなたにだけは告げましょう。あの事件の被害者の1人――“佐野里穂”は……」
そこで言葉が切れる。
ケテルの白い瞳が、わずかに大きく見開かれた。
「そうだったのですね……」
その一言には、驚きと理解が同時にあった。
「あなたの気持ちは痛いほど理解できます。しかし我々の使命は“殻”の排除です」
ネツァクは小さく笑った。
その笑みには、諦めとも自嘲ともつかない影があった。
「もちろん承知しています。それでも見過ごせなかった」
一拍。
「でも、結果として佐野里穂は死んだ。運命に抗うことの困難さを、思い知らされました。ですが私は、できることを粛々とやる。それが運命に逆らう形になろうとも」
その言葉は強かった。
けれど、強いからこそ、その奥に残った無力感が透けて見えた。
ネツァクは静かに立ち上がる。
「これからどうするおつもりですか?」
ケテルの問いに、彼女は答えなかった。
代わりに1枚の白い封筒を、ケテルの目の前にそっと置く。
その白が、妙に目についた。
「これを。時が来たら、正規のルートでケセドへ」
それだけ告げると、ネツァクは壁の向こうへ消えていった。
後ろ姿には、静かな寂寥だけが残っていた。
再び、部屋は静まる。
葛木はすぐには口を開かなかった。
先ほどからずっと、2人のやり取りを一言も挟まず見ていた。
その視線の先で、ケテルは封筒を見つめたまま動かない。
白い瞳には何も映っていないようで、その実、いくつもの判断が止まったまま沈んでいるようだった。
「……私も時折、わからなくなる。自分の存在意義が」
低く落ちたその声は、誰に向けたものでもない。
葛木は、いつもと同じ距離のまま静かに言う。
「ネツァクさまは、おっしゃいました。できることを粛々と、と。あなたも、あなたのやり方で」
簡潔な言葉だった。
だが、今のケテルにはそれで十分だった。
ケテルは目を閉じる。
わずかに揺れていた心の奥底が、ほんの少しだけ凪いだ。
それでも――
卓上の封筒だけは、異様な存在感を放ち続けていた。
まるでそれ自体が、次の局面を告げる前触れであるかのように。
その白い封筒が開かれる時、まだ何も知らない城戸谷留美たちの現実にも、別の形をした波紋が落ちることになるのだろう。




