第32話 粘りのヤス
2日前――
10月23日、金曜日。
小早川は安山に向かって、静かながらも強い眼差しで言った。
「ヤスさんには、もっと核心に迫るための事実の方をお願いしたいんです――」
その言葉を受けた安山は、この2日間、市内のあちこちを駆け回っていた。
来年で定年。
一昨年に娘にできた孫の世話が、今の彼にとっていちばん穏やかな時間だった。
休日には小さな手を引いて公園を歩く。
それが安山の、刑事という仕事とは正反対の顔だった。
だが――
ひとたび事件に火がつけば話は別だ。
“粘りのヤス”。
半ば古臭いその異名通り、安山は一度食らいついた線を簡単には離さない。
今回、小早川が立てた仮説はひとつだった。
今回の被害者たちは、藤原圭吾が以前勤めていた塾――T塾の関係者ではないか。
安山に任されたのは、斉藤恵梨香と三田村安奈が本当にT塾へ通っていたかの裏取り。
そして、今も晴明女子高にいる生徒の中に元T塾生がどれだけいるか、その足場を作ることだった。
安山が遺族や学校関係者への聞き取りを進める中で、斉藤恵梨香と三田村安奈が、いずれもT塾に通っていたことが判明した。
点が、ゆっくり線になり始める。
だが、それだけでは足りない。
問題はここからだった。
現在、晴明女子高に在籍している生徒の中に、かつてT塾へ通っていた者がどれだけいるのか。
もし連続殺人が続くなら、彼女たちが次の標的になる可能性がある。
しかし、その確認作業は想像以上に難航した。
T塾は今年3月に閉塾していた。
オーナーが急死し、後継者も現れず、運営は突然止まった。
教室はすぐに片づけられ、机、椅子、ホワイトボード、コピー機、そしてパソコンまで処分された。
生徒名簿は、おそらくパソコンの中にあった。
だが、その“おそらく”に手が届かない。
安山はその場で小さく舌打ちした。
ここで終われば、次の水曜日に間に合わない。
その思いが、彼をさらに泥臭くした。
長年の刑事経験で培った人脈と嗅覚を頼りに、安山は中古品流通のルートを洗い出した。
家電リサイクル業者。
回収業者。
ネットオークション。
個人売買。
倉庫業者。
ひとつひとつは細い線だ。
だが、こういう細い線を繋ぐのが、安山のような刑事の仕事だった。
執念の追跡の末、複数台あったはずのパソコンのうち1台が、博多の中古店へ流れていることを突き止めた。
埃を被ったノートパソコンを受け取った瞬間、安山の胸の奥が熱くなった。
奇跡に近い。
だが、奇跡で終わらせるわけにはいかない。
ここから先は、まだ戦いの途中だ。
*
安山が、よれよれのコートを翻しながら別棟の科学捜査室の扉を叩いたのは、小早川たちが山邊の事情聴取を終えた頃だった。
ノックのすぐ後、待ちきれずに扉を押し開ける。
「曽我さん、どうだい? こいつの中のデータは復元できそうかい?」
室内は薄暗く、複数のモニターの光だけが曽我稔彦の顔を照らしていた。
曽我は振り向き、安山の手元のノートパソコンを見ると、短く息を呑んだ。
「……よく見つけましたね、これ」
安山は肩で息をしながら、苦く笑う。
「奇跡みたいなもんだ。だから、こっから先はおまえの仕事だよ。俺はこういう泥仕事しかできん」
その声には、冗談めかした響きと、本気の願いが混じっていた。
曽我は椅子を引き、パソコンを受け取る。
キーを打ち、画面を覗き込み、数分。
やがて腕を組み、目を閉じた。
沈黙。
安山は机に片手をついた。
長時間歩き回った脚が、そこで初めて疲れを思い出したみたいに重くなる。
「……正直に言います」
曽我が口を開いた。
「かなり難しいです」
安山の眉がぴくりと動く。
曽我は画面を示した。
「この手のパソコンは、廃棄前に企業側が一度消去します。そのあと中古業者も再度クリーニングをかける。つまり――」
キーボードを軽く叩く。
「この1台は、最低2回、上書き消去されています。復元は、極めて厳しいです」
静寂が落ちた。
安山は目を閉じ、額を押さえた。
疲労が、そこで初めて顔に出る。
「……マジかよ」
その声は低かった。
怒りでも落胆でもなく、土俵際でまだ手を離したくない男の声だった。
「でもな」
安山はゆっくり顔を上げた。
「ここまで追って、やっと拾えた1台なんだ。藤原や元講師に聞いて回る方法もある。だが、人間の記憶は曖昧だ。生徒ひとりひとりの名前まで、そう簡単に覚えちゃいない」
拳が、机の上でゆっくり握られる。
「やっぱり確実なのは、この中身なんだ。頼む。何とかしてくれ」
それはもう、頼みというより懇願に近かった。
曽我は、その顔をまっすぐ見た。
ベテラン刑事が、ここまで言う。
それだけ時間がないのだ。
「……わかりました」
曽我が静かに言う。
「過度な期待はしないでください。時間はかかります。でも、できるところまでやります」
安山はゆっくり頷いた。
外では、日曜日の穏やかな空気が流れている。
だがこの部屋の中だけは違った。
次の犠牲が出る前に、名前を拾えるか。
それはもう、推理ではない。
時間との勝負だった。
“粘りのヤス”は、まだ手を離していない。
そして、この執念が届くかどうかで――
次の水曜日は、ただの被害予定日ではなくなるかもしれなかった。




