第31話 10台の飛ばし
10月25日、日曜日。
午前10時――
世間が休日の穏やかな空気に包まれる中、5班のメンバーは休みを返上し、淡々と業務に就いていた。
だがその“淡々”は、余裕から来るものではない。
切羽詰まった人間が、余計なことを考えないために手を動かしているだけだ。
真田瑞希は、執務室の脇に設置されたコーヒーメーカーの前に立ち、マイカップへコーヒーを8分目まで注いだ。
立ち昇る湯気が、わずかに張り詰めた神経を和らげる。
一昨日の金曜16時13分。
5班は、その時刻を意識して動いていた。
だが、新たに確認できたメールも、明確な新規被害も、その場では掴めなかった。
空振りだったのか。
それとも、こちらがまだ見えていないだけなのか。
その答えが出ないまま日曜日を迎えたこと自体が、真田には不気味だった。
カップを手に自席へ戻る途中、彼女は室内を見渡した。
若い刑事3人の奮闘により、福岡市内を縄張りとする飛ばし携帯売買業者――山邊剛史の身柄を確保した。
天神の繁華街の一角に中古品店を装って店を構え、その裏で飛ばし携帯を販売していた疑いが濃厚だ。
さらに、押収資料の中から、山邊が販売した携帯電話のうち2つの番号が、最初の2件の事件で警察にかかってきた予告電話の着信履歴と一致していることが判明した。
事件は、確実に前進している。
それでも真田の表情は明るくならなかった。
前進しているからこそ、間に合うかどうかが怖い。
椅子に腰を下ろし、コーヒーを一口含む。
苦い。
その苦さが、今の状況に妙に似合っていた。
「清水さん、どう? 何か収穫はありそう?」
真田が声をかけると、室内に残っていた清水楓がデスクへ歩み寄った。
その足取りは軽い。
だが、軽いままでいようと意識している感じもあった。
「矢島さん、事情聴取は久しぶりで緊張してましたけどね。でも小早川さんが一緒ですから。きっと大丈夫ですよ。必ず吐かせると思います!」
真田は軽く息を吐いた。
「そうなのよね……。小早川さん、大丈夫かしら?」
声音とは裏腹に、不安だけではなかった。
あの人ならやる。
その信頼も、ちゃんとあった。
だが、やっても遅ければ意味がない。
真田の視線は、無意識に壁の時計へ向かう。
秒針の動きが、やけに大きく感じられた。
*
執務室の階下にある取調室――
若い刑事・矢島一哉と、小早川陽介が並んでいた。
机を挟んだ正面には、茶髪に両耳ピアスの男――山邊が座っている。
年齢は30歳前後。
落ち着きなく爪をいじる指先が、苛立ちと怯えの両方を物語っていた。
「さっきから言ってますけどねえ……。うちは在庫も限られてますし、個人客ばっかりなんで、顔はできるだけ見ないようにしてるんですよ。商品が商品だけに、そこは配慮してやらないと――」
軽口。
逃げ口上。
自分だけは事件の外側にいるつもりの喋り方。
その瞬間――
バンッ!
矢島が机を強く叩いた。
衝撃が室内に響き、山邊の椅子まで震わせる。
「おまえ、つまり“表に出せない商品”って自覚してるわけだろ? しかも、おまえが売った番号から警察に電話がかかってるのは事実なんだよ! 思い出せる客の特徴を、1人ずつ話せ!」
矢島の怒気に、取調室の空気が一気に張り詰める。
山邊の喉が上下する。
だが、まだ決壊しない。
目だけが忙しなく泳いでいた。
その時――
静かに椅子を引く音がした。
小早川が立ち上がる。
彼は身を低くし、山邊の視線と同じ高さまで顔を近づけた。
怒鳴らない。
その代わり、目だけが冷たい。
「こっちもな、これ以上犠牲者を出すわけにはいかないんだ」
低い声。
感情を抑え込んだ時の声だ。
「全部思い出せとは言わねえ。ただよ……おまえの店、細々やってるんだろ? 一度に何台も買うような客なら、少しは印象に残ってるんじゃないか?」
山邊は目を逸らそうとして、逸らせなかった。
小早川の顔つきが、冗談も逃げ道も許さない種類のものに変わっていたからだ。
「あ、ああ……思い出した。そ、そういえば一度に10台も買った客がいましたね――」
矢島が目を見開く。
「10台だと? いつの話だ?」
「9月30日です。月末の締めだったんで、よく覚えてますよ。うちじゃ普通は1台、多くて2、3台なんで……」
小早川の目が細くなる。
「その客の特徴は?」
「え、ええと……黒いニット帽を深く被ってて……声は若そうでした。あとは……」
そこで山邊の言葉が止まる。
小早川は背後へ回り込み、耳元で低く囁いた。
「他にも海賊版DVD扱ってるらしいな? 余罪、洗い出してもいいんだぞ?」
その一言で、山邊の肩が目に見えて竦んだ。
口の端が引きつり、額から一気に汗が滲む。
爪をいじっていた指が止まる。
「あっ……!」
声が裏返った。
「ホクロ! 右手の甲の真ん中あたりに、大きなホクロがありました! 金を受け取る時に見たんで、間違いないっす!」
「嘘じゃねえな?」
「絶対です!」
取調室に、短い沈黙が落ちた。
10台。
その数が、矢島の背筋まで冷やした。
*
再び執務室――
事情聴取を終えた小早川と矢島が戻る。
真田がすぐに立ち上がった。
その動きに、待っていた時間の長さがそのまま出ていた。
「収穫があったみたいですね!」
矢島が報告する。
「10台購入。やはり予告電話の番号と一致しました」
小早川が補足する。
「さらに残り3台は、曽我が解析したメール送信番号と一致。購入は9月30日。最初の事件の1週間前です」
真田の背筋が伸びる。
コーヒーの苦みなど、完全に口から消えた。
「つまり……犯人は1件につき2台使用。予告電話とメールで。3件で最大6台。10台買っているなら――」
小早川が続けた。
「残り4台ある計算だ」
空気が変わった。
真田が息を呑む。
「……同じ使い方なら、あと2件分残っている計算になりますね」
その言葉を、誰もすぐには否定できなかった。
部屋の中にいた全員が、同じ数字を頭の中でなぞっていたからだ。
小早川は静かに頷く。
「次の水曜日までに確保するか、保護対象を特定するか。どちらかです」
真田の手が、無意識に机の端を掴む。
緊張で、指先が少し白くなった。
次の水曜日。
その日付が、急に具体的な脅威として迫ってくる。
部屋の時計の秒針が、やけに大きく響いた。
残っているのは台数だけじゃない。
残っているのは、日数でもあった。
事件は、まだ終わっていない。
むしろ――
次の水曜日へ向けて、確実に進んでいる。
その事実だけが、執務室全体の胸元を冷たく締めつけていた。




