第30話 16時13分のメール
10月23日、金曜日
午前8時30分――
5班のメンバーは、すでに執務室に集まっていた。
昨夜からの疲労が抜けきらない顔ぶれだが、誰ひとり遅れてくる者はいない。
空気は重い。
しかもその重さは、睡眠不足のせいだけではなかった。
佐野里穂の事件から、まだ2日。
そして――今日は金曜日だ。
最後に姿を見せた安山潤一郎を確認すると、小早川陽介がすぐに口を開いた。
「みんな、すまない。少し寄ってもらえるか?」
各自のデスクから立ち上がった刑事たちが、脇の縦長テーブルの周囲へ集まる。
椅子の擦れる音が短く響き、すぐに静まった。
小早川は一度、軽く息を整えた。
「真田……さんと相談した結果なんだが――」
うっかり昔の呼び方を出しかけ、喉の奥で止める。
ちらりと真田を見る。
彼女はもうその程度では何も言わない。
だが、目だけは鋭かった。
「いや……つい癖でな」
小さく咳払いをしてから、小早川は資料を広げた。
その指先には、わずかに力が入っている。
「実は、まだ全員に共有していない事実がある。俺と真田さんで精査した上で上層部にも上げたが、なぜか一蹴された」
ざわめきが走る。
その言い方に、すでに小早川の機嫌の悪さが滲んでいた。
「これは、3人の被害者のショートメール受信履歴と内容だ。削除されていた分も復元し、殺害前1か月分を抽出してある」
資料の中で、ピンクの蛍光ペンが引かれた箇所には、同じ時刻が並んでいた。
斉藤恵梨香――10月2日(金曜日)16時13分
三田村安奈――10月9日(金曜日)16時13分
佐野里穂 ――10月16日(金曜日)16時13分
全員、金曜日の16時13分。
差出人は異なる番号。
本文は、たった一行。
「はじめましてエアリアルと申します」
そして、同じような風景写真。
奥に立体駐車場。
手前に古い一軒家。
やや高所から撮影されたような構図。
部屋の空気が、しんと冷えた。
「現物はもっと異様だ」
小早川が言った。
「深い青に染まっていてな……ただの風景のはずなのに、生理的にくる。後輩の技官に依頼して色味だけ自然に戻した。今は、景色の場所を特定する方が先だからな」
誰も軽く受け取っていない。
それでよかった。
この情報は、ただ不気味な写真として流されてはいけない。
ここから先は、手順だ。
犯人の、次の動きだ。
安山が腕を組み、低く言う。
「“エアリアル”か……何者だろうな。写真の場所も、これだけじゃ特定は難しい。似た構図なら日本中どこにでもある。しらみ潰しは非効率だ」
「その通りです」
小早川が頷いた。
清水楓が手を挙げる。
「発信元は特定できないんですか?」
「難しい」
小早川は即答した。
「犯人は“飛ばし”を使ってる可能性が高い。電源を落とされれば追跡はほぼ終わりだ。基地局対策までしてるかもしれない。なら、番号そのものを売った人間に当たる方が早い」
そこで、小早川は一度、全員を見回した。
「……そして、パターンが続くなら」
その一言で、誰もが次を察する。
「次のメールは、今日の16時13分だ」
執務室の空気が、一気に張り詰めた。
午前8時30分。
残りは、8時間もない。
いや、まともに動ける時間で考えれば、もっと短い。
清水の唇が強張る。
須賀修一が資料を持ち直す。
矢島一哉は目を細めたまま、黙って時刻を見た。
真田はテーブルの端に手を置いた。
この情報を共有したかった理由は、まさにそこにあった。
次の水曜日を待つだけでは遅い。
今日の16時13分が、もう入口になっているかもしれない。
小早川の視線が、若手3人――清水、須賀、矢島へ向く。
「おまえたちに任せたい。発信元番号の売買ルート、飛ばしの流れ、拾えるだけ拾え。今日の16時13分までに、手がかりをひとつでも多く持ってこい。やれるか?」
「はい!」
3人の返事は揃っていた。
勢いがある。
だが、その声には緊張も混じっている。
若さだけでは押し切れない局面だと、もう理解しているからだ。
「おいおい……年寄りは仲間外れかよ」
安山がわざとらしく眉をひそめる。
小早川はニヤリと笑った。
「ヤスさんには、もっと核心に近い仕事をお願いしたい」
その瞬間、安山の目が変わった。
軽口の奥で、火が入る。
「……ほう」
短い返事。
だが、その声には、獲物の匂いを嗅いだ時の刑事の熱があった。
*
正午過ぎ――
執務室に静かな時間が戻った頃、小早川が真田へ声をかけた。
「真田さん、近場で手早く飯でも食いませんか?」
「そうですね。ずっとコンビニばかりでしたし」
「我々は体が資本です。短時間で済む店にしましょう。たとえば……鰻とか」
真田がわずかに目を細める。
「今回は私の番でしたね」
「いやあ、いい上司を持った俺は幸せ者だなあ」
軽口を交わしながらも、2人の足取りは速い。
休憩というより、執務室を離れて短い時間だけ頭を整理するための外出だった。
近くの鰻専門店。
個室に通される。
真田は迷わず「特上鰻蒸籠蒸し」を2人分注文した。
湯気の立つ緑茶が先に出される。
静かな店内。
だが、その落ち着きがかえって時間を意識させた。
あと4時間あまり。
16時13分まで、もう半日もない。
小早川が湯呑みを持ったまま言う。
「現時点で腑に落ちない点が2つあります」
真田はすぐに答えた。
「1つは被害者の関係性でしょう?」
「さすがだ」
小早川は頷いた。
だが、顔に笑みはない。
「犯人は無差別じゃない。何らかの法則で選んでいる。鍵は藤原圭吾だと思ってる。あいつが犯人だとは思えない。だが、被害者たちを結ぶ“糸”の中心に、あいつがいる気がする」
真田は深く頷いた。
「だからヤスさんに、あの調査を」
「そういうことです」
小早川は湯呑みを置いた。
乾いた音が、やけに大きく聞こえた。
「もう1点は――予告電話ですよ」
真田の表情が引き締まる。
「佐野里穂の時だけ、なかった」
「そこです」
小早川の声が低くなる。
感情を抑えている時ほど、こういう声になる。
「ここまで計画的な犯人が、今回だけ警察への予告を省きますか? ありえない。雑になったんじゃない。たぶん、こっちが見張るべき時刻を外してきたんです」
真田の指先が、無意識に湯呑みの縁をなぞった。
「水曜日10時ではなく、金曜日16時13分……?」
「そう考えた方が筋が通る」
小早川は真田を見る。
「佐野の時だけ予告がなかったんじゃない。こちらが“予告”と認識していなかっただけかもしれない」
真田は短く息を吐いた。
それがいちばん嫌な答えだった。
「次の水曜まであと6日、ではなく……今日の16時13分まで、あと4時間」
その声には、はっきり焦りが滲んでいた。
「悠長に鰻なんて――そう言いたいところですが、もう本当に時間がありません」
小早川は穏やかに言う。
「焦っても事態は好転しません。休む時は休む。食う時は食う。それも仕事です」
その言葉は正しい。
だが、時間が敵になっている今は、その正しささえ苛立たしい。
ちょうどその時。
障子が静かに開き、和服姿の若い女性店員が“特上鰻蒸籠蒸し”を運んできた。
立ちのぼる湯気。
香ばしい匂い。
濃厚な秘伝のタレが光を反射する。
重苦しい事件の真っただ中にあって、束の間の静寂がそこにあった。
だが、その静けさは休息ではなかった。
ただ、16時13分までの残り時間を、よりはっきりと意識させるだけだった。




