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第29話 茜から群青へ

海岸に到着してから、もう30分ほど経っただろうか――


水平線の彼方にかかっていた夕日は、すでにその輪郭を失っていた。


赤く燃えるようだった光は沈み、今は、水平線の下から漏れる残光が、遠い海面の一部だけを淡く照らしている。


空の色は刻々と変化していた。


西の空は茜色から紫へ、そして群青へと移ろい、東の空はすでに夜の気配を帯び始めている。

潮風は昼間よりひんやりとして、頬を撫でる感触も少し冷たい。


波の音だけが、規則正しく寄せては返している。


東屋のベンチに並んで座る2人の周囲も、少しずつ人影が減っていた。


先ほどまで談笑していたカップルも、帰路につき始めている。

砂浜に落ちた長い影は、いつの間にか闇に溶け込んでいた。


隼人は海を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「よし。もう暗くなるし、今日は帰ろうか――」


その声は、優しく現実的だった。


留美は腕時計に目を落とす。


時刻は、午後6時を少し回っている。

思ったよりも時間が経っていた。


「ダメ、もうちょっと……」


留美はそう言って、名残惜しそうに首を振る。


「日が落ちても、すぐ真っ暗にはならないし……」


そのまま、そっと隼人の方へ体を寄せる。


肩と肩が触れ合うほど、自然に近づいていた。


隼人は苦笑しながらも、拒む様子はない。


「風、冷えてきたぞ?」


「平気。さっきより、ちょっと寒いけど……」


留美はそう言いながら、両腕を自分の体に回す。


そして、ためらいがちに隼人の腕に指先をかけた。


波音が、わずかに大きくなる。


空は、完全に茜色を失っていた。

代わりに、濃い青が空を支配し始めている。


西の地平線だけが、まだかすかに光を帯びていた。


「最近さ……」


留美がぽつりと口を開いた。


「学校、ちょっと変な空気なんだ」


隼人は横目で彼女を見る。


「事件のせいか?」


「うん。みんな普通にしてるけど、本当は怖いんだと思う。帰り道も、いつもより静かで……。ちょっとした物音でもビクッとするし」


自分でも気づかないうちに、指先に力が入っていた。


隼人はゆっくりと頷く。


「無理もないよな。あれだけ続けば」


「うん……」


ほんの少しの沈黙。


留美は、本当はもっと別のことを言いたかった。


梓沙のこと。

ミス部で何かを掴みかけているような、あの張り詰めた顔のこと。

自分だけが、何も言えていないような後ろめたさのこと。


「あのね、私――」


そこまで出かかった声が、喉の手前で止まった。


言ってしまえばいい。

そう思ったのは、一瞬だった。


でも、それを言葉にすると、今日のこの時間までも事件の中に引き戻されてしまう気がした。


隼人の隣で感じているこの温もりまで、急に借り物みたいになってしまいそうで、怖かった。


だから留美は、口を噤んだ。


代わりに、今ここにある安心だけを掴むように、もう少し隼人へ体を寄せる。


「でも、今日こうやって隼人といると……少しだけ、安心できる」


言った後で、恥ずかしくなったのか視線を逸らす。


隼人は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに優しく笑った。


「そりゃあ、彼氏だからな」


軽く肩を竦める。


「何かあったら、ちゃんと言えよ。強がるな」


その言葉は、先ほど自分が語った“強がる癖”の告白と、どこか重なっていた。


留美は小さく頷く。


言えばいいのに、と思う。

でも、言えない。


何をどこまで話せばいいのか、自分でもまだ整理できていない。

そして今は、それを話すより、この温もりの方を選びたかった。


潮の香りが、ふわりと漂う。


その時、遠くで飛行機のエンジン音がかすかに響いた。


福岡空港を出た機体だろう。

夜の始まりを告げるような低い音が、空へと消えていく。


留美はほんの一瞬だけ、その音に意識を引かれた。


なぜだかわからない。

でも、胸の奥のざわめきが、小さく波立った。


すぐに波音がそれを覆い隠す。


隼人の隣にいる現実の方が、今はまだ強かった。


砂浜は、もう薄暗い。

街の灯りが、少しずつ海面に映り始めている。


福岡タワーのイルミネーションが点灯し、夜の風景へと姿を変えつつあった。


「……やっぱり、帰ろうか」


留美が自分からそう言った。


先ほどまでの名残惜しさとは違う、どこか現実を受け入れた声だった。


ここにずっとはいられない。

この時間は、やっぱり“借りているだけ”のものなのだと、留美は薄々感じていた。


隼人は小さく頷く。


「うん。暗い中を走るより、今のうちの方がいい」


2人は同時に立ち上がった。


ベンチを離れ、バイクの方へ歩く。

砂を踏む足音が、やけに静かに響く。


ついさっきまで感じていた高揚感とは違う、少しだけ落ち着いた空気が流れていた。


それは楽しかった時間の名残でもあり、現実へ戻るための助走でもあった。


ヘルメットを手渡され、留美はそれを受け取る。


被る前に、もう一度だけ海を振り返った。


闇に包まれた水平線は、もう何も語らない。

ただ、静かに波が打ち寄せているだけだった。


――嫌なことも、忘れられそう。


そう思ったはずだった。

実際、少しだけ忘れられていた。


だからこそ、胸の奥にまだ残っているざわめきが、逆にくっきり感じられた。


梓沙に言えていないこと。

自分だけが日常へ逃げ込んでいるような感覚。

そして、事件がまだ何も終わっていないという、うまく言葉にできない予感。


それが潮風の冷たさのせいなのか、それとも別の理由なのか――

留美自身にも、まだわからなかった。


隼人がエンジンをかける。


低い振動が身体に伝わる。


留美は後ろから彼の体に腕を回した。

いつもより、ほんの少しだけ強く。


この温かさを覚えておきたかった。


今日、自分がちゃんと普通の高校生だった時間を、忘れないように。


同時に、今日もまた結局、言えなかったのだとも思った。


梓沙にも。

隼人にも。


自分がいちばん抱えているものを、まだ誰にも渡せていない。


バイクはゆっくりと走り出す。


百道の海岸の夜景が、後方へと流れていった。


茜から群青へ変わる空の下で、留美はほんの短い間だけ、事件の外側にいられた。


けれどその時間が、永遠には続かないことも、

そして、自分がまた何も言わないまま事件の内側へ戻っていくことも――

もうどこかで予感していた。


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