第28話 百道の海
ちょうど中林梓沙がミス部で議論を始めた頃――
城戸谷留美は梓沙と別れ、博多駅・筑紫口に面した通りを足早に歩いていた。
駅の出口付近は、タクシー待ちの乗客でごった返している。
スーツ姿の会社員。
旅行バッグを引いた観光客。
制服姿の学生たち。
絶え間なく流れる人波の中を、留美は器用にすり抜けていく。
彼女が目指していたのは、国道沿いにある駐輪場だ。
夕暮れ時の空気は、どこか湿り気を帯びている。
昼間の喧騒がまだ完全には収まらず、車のクラクションやエンジン音が混じり合っていた。
それでも今日は、そのざわめきが少しありがたかった。
静かな場所に1人でいると、どうしても事件のことを考えてしまうからだ。
さっきまで梓沙と会っていた。
いつもなら、もっと何気ない話をして別れるはずだった。
なのに今日は、校舎の空気も、ミス部の話題も、全部がどこか硬かった。
梓沙に言えていないことも、少しだけ胸に支えている。
事情聴取で警察に何も言わなかったこと。
あの青い写真のこと。
そして、そのことを梓沙にすらまだきちんと話していないこと。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。
だから今日は、隼人に会いたかった。
会って、少しだけでも普通の高校生に戻りたかった。
その一角――
黒を基調としたスタイリッシュな中型バイクの横に、短髪で目鼻立ちの整った20歳前後の青年が立っていた。
車体と同じ黒のライダースーツを着こなし、無駄のない立ち姿でスマホをいじっている。
やがて留美の姿を認めると、顔をぱっと明るくした。
「おーい、こっち、こっち――!」
爽やかな笑顔で大きく手を振る。
その瞬間、留美の胸の中の重さが、ほんの少しだけ軽くなった。
事件も、学校も、警察も、今だけは少し遠くなる。
留美は思わず小走りになった。
青年の前まで来ると、腕時計に視線を落とし、息を弾ませる。
「ちょっと遅れちゃった……。ごめんね! 待った?」
「いやいや、全然大丈夫だよ。俺も、ちょうどさっき着いたところだし」
そう言って笑うのは、留美の3つ上の彼氏――大塚隼人。
福岡市内のF大学工学部に通う学生で、T塾の先輩でもある。
留美は高校受験、隼人は大学受験を目指して通っていた。
ちょうど同じ曜日に塾で顔を合わせる機会が多かったので、自然と仲良くなった。
付き合い始めたのは、昨年の夏。お互い志望校に合格して塾を辞めだが、花火大会での偶然の再会がきっかけだった。
隼人は留美の周囲の人間関係ともゆるく繋がっていた。
親友の梓沙とも、その頃の流れで一度だけ連絡先を交換していたことを、留美はふと思い出した。
「平日なのに悪かったな。あまり遅くなると親が心配するだろうし、今日は近場にしようか? どこに連れて行こう?」
「大丈夫だよ、隼人が一緒だし。それに……あんな事件が続いてるせいで、最近は部活も中止になってるし」
留美は少しだけ表情を曇らせたが、すぐに笑顔を作る。
「そうねえ……海が見たいから、百道の海岸とか?」
隼人の背にしがみつき、風を切って走る――
それが2人の定番デートだった。
連絡はほぼ毎日取り合っているが、実際に会うのは土日が中心だ。
平日は留美が部活動、隼人は大学の授業で忙しい。
本来なら次の土日どちらかでドライブの予定だった。
だが隼人の都合で変更になり、急遽今日に決まった。責任を感じた彼は、5限目の授業を早めに切り上げて駆けつけたのだ。
隼人は赤いフルフェイスのヘルメットを手渡す。
「ほら」
留美が被るのを確認すると、自分もお揃いの黒を装着した。
「本当にごめん。急に野暮用が入っちゃってさ。じゃあ、今日は百道まで行こう!」
背後から自分の腹に回された留美の両腕を感じながら、隼人はキーを回した。
エンジンが低く唸る。
軽やかにハンドルを切り、夕方のラッシュでやや混雑した道路へと走り出した。
*
博多駅周辺の渋滞を抜けると、バイクは西へ、西へと進む。
時間を少しでも長く共有するため、高速道路は使わず一般道を選んだ。
それでも二輪車の機動力は抜群だ。車列の合間を縫うように進み、ストレスは少ない。
風が、ヘルメット越しに頬を撫でる。
その風に当たっている間だけは、頭の中が少し空っぽになる。
学校で息を詰めていた分だけ、胸いっぱいに空気を吸える感じがした。
――ああ、ちょっとだけ楽かも。
そう思ってしまった自分に、留美は小さな後ろめたさも覚えた。
梓沙は、今頃きっとまた事件のことを考えている。
自分だけが、こうして海へ向かっていいのだろうか。
その時、ふと別の考えもよぎった。
――本当は、梓沙に話すべきだったのかな。
青い写真のこと。
警察に言えなかったこと。
あの子になら、言えたかもしれない。
でも、次の瞬間には、隼人の背中の温かさがそれを押しやった。
今日は、少しだけ逃げたかった。
何も考えず、ただ彼氏と出かける高校生でいたかった。
ウー、ウー、ウー……。
ちょうど大濠公園付近を通過した時だ。
対向車線を、数台の消防車がサイレンを鳴らして駆け抜けていく。
市内中心部のどこかで火災が発生したらしい。
留美はほんの一瞬だけ、胸の奥にざらつくものを感じた。
だが隼人が少しスピードを緩め、車体が安定すると、その感覚も薄れた。
2人はすぐに前を向いた。
――今は、風が心地よかった。
やがて、福岡タワーを背後に望む百道の海岸に到着した頃、空はすでに茜色に染まっていた。
西の水平線へ沈みかけた夕日が、海面を赤く照らす。
上空には鰯雲が広がり、周囲は青紫に滲んでいる。
赤く燃えているはずの景色の奥に、夜へ沈みきらない深い青が残っていた。
潮の匂いと、静かな波音。
海岸には何組かのカップルがいた。
同年代か、20代前半ほどの若者たちだ。
どこか皆、日常から切り離された穏やかな表情をしている。
東屋のベンチが空いていた。
2人は並んで腰を下ろす。
「こんな夕方の風景が、俺はいちばん好きなんだ」
隼人が海を見つめたまま言った。
「昼から夜に変わる瞬間って、何となくドキドキしないか?」
「そうだね……」
留美も夕日に視線を向ける。
「嫌なことも、忘れられそう……」
ぽつりとこぼしたその言葉は、思ったより素直に出た。
本当に、そうだった。
ここへ来るまで、胸の中でずっと固まっていたものが、波音に少しずつ溶けていく気がする。
「人間ってさ、弱い生き物だから」
隼人が静かに続ける。
「何かあると、つい誰かに頼りたくなるもんだよな」
そこで一度、彼は笑った。
「今まで言ったことなかったけど……俺、小学校時代は黒歴史だらけだったんだ」
唐突な告白に、留美は目を丸くした。
「俺は小学校まで北九州にいて、中学から福岡に転校してきたって話したことあるだろ?」
「うん」
「北九州にいた頃、いじめに遭ってたんだよ」
夕日の光が、隼人の横顔を赤く染める。
留美は、すぐには言葉が出なかった。
こんなふうに、自分から弱い話をする隼人を見るのは初めてだったからだ。
「そんな中で、俺を精神的に支えてくれたのが、5つ上の腹違いの兄貴だった」
波音が、2人の間に一度入る。
「本当?」
留美は隼人の顔をじっと見た。
「隼人がいじめられてたなんて、全然信じられない。それに……お兄さんがいたなんて、初めて聞いたよ」
隼人は小さく笑った。
「事情がちょっと複雑でな」
少し間を置いてから続ける。
「俺が小学校を卒業する時、両親が離婚したんだ。兄貴は父親についていき、それ以来会ってない」
留美は黙って聞いた。
海の音が、言葉の隙間を埋める。
「その後は、母親と2人暮らし。シングルマザーでさ。だから、強がる癖がついちゃって……」
照れくさそうに髪を掻く。
その仕草を見ながら、留美はまた一瞬だけ思った。
――自分は、誰に何を話して、誰に何を隠してるんだろう。
隼人は今、弱さを話している。
なのに自分は、いちばん言うべきことを黙ったままだ。
その感覚が胸を刺しかけた時、隼人が少し笑って言った。
「でも、そのおかげで――留美みたいな、かわいい彼女ができたわけだけどな」
その言葉に、留美の顔が一瞬で赤く染まる。
「バカ……」
小さく呟き、隣にいる隼人の腕を軽くつついた。
こんなふうに笑ったのは、いつぶりだろう。
そう思った瞬間、留美は少しだけ驚いた。
学校ではずっと、誰かの死の話と、誰かの視線の話ばかりだった。
だから今こうして、ただ恋人と夕日を見て笑っている時間が、ひどく貴重に思えた。
でも、胸の奥のざわめきが完全に消えたわけではない。
梓沙に言えていないこと。
警察に言わなかったこと。
あの青い写真のこと。
それらは、海の向こうへ消えるどころか、見えないまま胸の底に沈んでいるだけだった。
夕日は、ゆっくりと水平線へ沈んでいく。
昼と夜の狭間で、2人だけの時間が静かに流れていた。
留美は思った。
このまま、もう少しだけ、普通の高校生でいさせてほしい――と。




