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第23話 限りなくシロ

時刻は午後9時を回っていた。


5班の執務室には、疲労と焦燥が入り混じった重い空気が漂っている。


蛍光灯の白い光が書類の山を照らし、コピー機の低い駆動音とキーボードを叩く音が断続的に響いていた。


誰も帰ろうとしない。

帰れる空気でもなかった。


その時、ドアが開いた。


安山たちが戻ってきたのだ。


真田は椅子から勢いよく立ち上がった。


「お疲れさまです。どうでした?」


声は平静を装っている。


だが、待っていた時間の長さがそのまま滲んでいた。


安山はネクタイを少し緩めながら、真田の顔を見る。


その表情には疲労もある。

だが、それだけではない。


言いにくい報告を持ち帰った時の顔だった。


「本件は……ほぼ完璧なアリバイが成立しますね」


その一言で、執務室の空気が静かに沈んだ。


安山たちの報告によれば、藤原圭吾は事件当時、偶然再会した友人と天神の居酒屋で飲食していた。


それは単なる自己申告ではない。


店員の証言。

レジ記録。

滞在状況の確認。


少なくとも“その時間帯に彼が外へ出て犯行に及んだ”と見るのは無理がある。


司法解剖の結果、佐野里穂の死亡推定時刻は水曜日の午後8時から10時頃。


この幅を前提にしても、藤原が直接手を下した可能性はかなり低い。


「そうですか……」


真田の声が少し沈む。


昨夜の遺体の印象が、まだ抜けていない。


追えると思っていた線が、目の前で静かに細くなっていく。

その感覚が、余計にきつかった。


「では、他の事件についてもアリバイを確認する必要がありますね」


言い終える前に、安山が手で制した。


「そう言うと思って、会う前にウラは取っておきましたよ」


真田が顔を上げる。

小早川も腕を組んだまま視線を向けた。


「須賀」


安山に促され、須賀修一という若い刑事が手帳を開く。


資料を読む声は落ち着いていたが、ページをめくる指だけが少し速い。


「まず1件目、10月7日。勤務先の同僚講師との懇親会に参加。午後11時頃まで店にいたとのことです。店舗側の証言も取れています」


「……成立ですね」


真田が短く言う。


「2件目、10月14日。こちらは完全なアリバイではありませんが、同じアパートの住人の証言から、死亡推定時刻の午後8時から9時頃には在宅していた可能性が高いです。室内の物音、照明の点灯状況も一致しています」


「そうなると、現時点では3件とも、客観的には限りなくシロ、か……」


真田が力なく言った。


その言葉に、執務室全体の熱が一段下がる。


追えると思った線が、目の前で解けていく感覚。


だが、その沈み方に納得していない人間もいた。


「でも、令状を取って家宅捜索をかける価値はあるんじゃないですか?」


若い女性刑事、清水楓が口を開いた。


「被害者たちは全員、スカートを持ち去られている。藤原宅からそれが出れば、一気に状況は動きます」


声は抑えている。


だが、その芯は硬かった。


安山は首を横に振る。


「現状では弱い。家宅捜索は“怪しいから”じゃ打てない」


「でも、怪しいのは事実でしょう」


清水が引かない。


「元教え子と事件当日に接触していた。しかも感情的な関係の可能性もある。そこまで揃っているのに、ただアリバイがあるから外すんですか?」


須賀がわずかに視線を伏せた。


令状の厳しさはわかっている。

だが、気持ちの上では清水に近い。


そんな沈黙だった。


安山の目が少し細くなる。


「外すなんて言ってない」


静かな声。


だが、空気を止めるには十分だった。


「“犯人ではない”とは言っていない。今の段階で、“殺した証拠が足りない”と言っているだけだ」


清水は口を紡ぐ。


理屈ではわかる。

だが感情が追いつかない。


小早川がそこで口を開いた。


「ヤスさん。あなたの顔は、“シロじゃない”って言ってますよ」


安山がそちらを見る。


「勘ですか?」


「そうだ」


小早川の声には挑発半分、確認半分が混じっていた。


だが、その目は笑っていない。


安山は数秒黙った後、椅子を少し引いた。


「……俺の勘では、藤原圭吾は何かを隠している」


その一言で、執務室の空気がまた変わった。


真田が顔を上げる。

清水の目も動く。


「殺人そのものかどうかは、まだ断言できん。だが、あの男は“何も知らない人間”の顔じゃなかった」


安山は淡々と続ける。


「言葉は整っていたが、整えすぎていた。こちらが踏み込んでほしくない場所を、先回りして埋めてくる喋り方だ」


一拍置く。


「特に、佐野里穂の立ち位置を語る時だけ、線引きが正しすぎた。“元教え子です”――あれは、感情を隠すための言葉に見えた」


小早川が鼻で息を吐いた。


「やっぱりな」


安山は首を横に振る。


「ただし、それは“殺した”と同義じゃない」


その言い方で、執務室の温度がまた少し変わる。


「だからシロではない。だが、クロともまだ言えん」


「……厄介ですね」


真田が呟く。


「いちばん厄介です」


安山は即答した。


「真っ黒な奴は、どこかで綻ぶ。だが、グレーの奴は自分でバランスを取る。崩れそうで崩れない」


小早川が腕を組み直した。


「犯人じゃなくても、あの男は被害者の中心にいた可能性があるってことですね」


安山はその言い方を否定しなかった。


「そういうことだ。事件の外にはいない」


真田は椅子に座り直した。


背もたれが、わずかに軋む。


藤原は限りなくシロだ。


少なくとも、直接手を下した犯人像からは遠ざかる。

だが、それで終わるわけではない。


むしろ厄介なのは、その先だった。


被害者たちの側に近い位置にいて、なおかつ今は手が届かない。


その現実が、余計に苦しかった。


壁の時計が秒を刻む。


カチ、カチ、カチ――


その音が、執務室の沈黙を削っていく。


これ以上の犠牲者は出せない。


全員がそう思っている。

だが、その思いだけでは犯人には届かない。


真田はゆっくり息を吸った。


「……藤原を外す必要はありません」


顔を上げて言う。


「直接手を下していないとしても、関係している可能性はある。線は切らずに追いましょう」


安山が小さく頷く。

小早川も無言で同意した。


「まず、坂口の裏をもう少し詰めます」


須賀が手帳を見たまま言う。


「それと、藤原の周辺でT塾時代の接点を洗い直します。今の立ち位置が“元教え子”だけで済むのかは、まだ見切れません」


清水も続けた。


「家宅捜索は今すぐ無理でも、周辺から固めることはできます」


それで、執務室の空気が少しだけ戻る。


振り出しではない。

犯人像としては遠のいた。


だが、切れていない線が一本ある。


細くても、辿るしかない。


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