第2話 午後10時の通報
10月7日、水曜日。
午後10時前――
福岡県警本部地域課の執務室には、当直の男性職員が2人だけ残っていた。
経費削減の波は、官公庁にもとっくに及んでいる。
広い室内の照明はほとんど落とされ、白い光が机の上だけを島みたいに照らしていた。
壁際には薄闇が溜まり、使われていないパソコンに繋がれたルーターだけが、青白いランプを小刻みに点滅させている。
その光は、静かな呼吸みたいだった。
「まったく、何でもかんでも経費カットだ。こんな暗い部屋で一部分だけ明るい方が、かえって目に悪い」
年配の男性職員が顔をしかめ、溜め息をつく。
若い男性職員は、ルーターの青白い点滅を横目で見ながら、気のない相槌を打った。
「家のローンだの、子どもの学費だの、先のことを考えると頭が痛い。お前も今のうちに考えとけ」
年配はそう言って、自分のバッグから1枚のパンフレットを取り出し、若い職員の机へ放った。
「不動産投資のセミナー案内だ。講師は白石とかいうやつらしい。一緒に受けてみないか?」
若い職員は一瞥しただけで、それを押し返す。
「公務員は副業禁止です」
「抜け道なんて、いくらでもあるさ」
年配は軽く笑った。
若い職員の眉間に、微かに皺が寄る。
その時だった。
プルルルル……。
固定電話が、執務室の静けさを切り裂いた。
若い職員は反射的に受話器を取る。
「はい、福岡県警地域課――」
数秒、無音。
いたずら電話か。
そう思いかけた次の瞬間、耳に届いた声に背筋が冷えた。
「人を殺して、死体を捨てました」
男か女か、判別できない。
ボイスチェンジャーでも通しているのか、金属が擦れるようにひずんだ声だった。
それなのに、言葉の運びだけが妙に落ち着いている。
酔っている感じもない。
慌てている感じもない。
まるで、決まった時刻に決まった連絡を入れているみたいな、平坦な声だった。
若い職員は、無意識に息を止めた。
ただのいたずらなら、こんなふうに耳の奥へ冷たさが残るだろうか。
なぜか、そう思った。
「場所は、箱崎埠頭。西側の倉庫街を抜けた先、岸壁沿いの空き地です」
一言一言が、妙に正確だった。
“箱崎埠頭”だけではない。
位置の言い方に迷いがない。
実際にその場所を知っている人間の口ぶりに聞こえた。
「……誰だ。今どこにいる?」
思わず問い返す。
だが、相手の声は変わらない。
「午後10時ちょうどです。行けば、わかります」
直後、通話は切れた。
「もしもし! もしもし!」
応答はない。
耳に残るのは、切れた回線の乾いた無音だけだった。
若い職員は、壁の時計を見る。
午後10時ちょうど。
その一致が、喉の奥をひりつかせた。
年配の職員が身を乗り出す。
「どうした?」
若い職員は、受話器を握ったまま答えられなかった。
「おい、何だ?」
少し強い口調で促され、ようやく受話器を置く。
「男か女かわかりません。人を殺した、と。そして死体を箱崎埠頭に捨てた、と……」
年配は一瞬だけ顔を強張らせた。
だが、すぐに口元を緩める。
「いたずらだ。よくある。俺も何回も受けた。全部ガセだ。わざわざ上に報告して確認して、全部無駄足だよ」
若い職員は、内心で反発した。
この人は、自分の経験だけを絶対視している。
たしかに、いたずらかもしれない。
だが――
「でも、あの声……」
自分でも驚くほど小さな声が漏れた。
「何だ?」
「落ち着きすぎてました。いたずらにしては……。それに、場所の言い方が妙に具体的で……」
相手が地名を口にした瞬間、頭のどこかで“本当にある”と判断してしまった。
その感覚だけが、どうしても拭えない。
年配は呆れたように肩を竦める。
「だからこそ悪質なんだよ。そうやって本物っぽく聞かせる。お前は真面目すぎる」
若い職員は立ち上がった。
「しかし、もし事実なら重大事件です。上に報告し、確認を取るべきです」
年配は壁の時計を見た。
「10時だな。俺は夜食を買ってくる。お前は少し落ち着け」
そう言って肩を叩き、執務室を出ていった。
ドアが閉まる。
執務室には、換気音だけが低く響いた。
そして、ルーターの青白い光が規則正しく瞬いている。
――箱崎埠頭。
その地名が、頭の奥で何度も反響する。
数時間前まで、街は黄砂に霞んでいた。
もし、あの電話が本当なら。
この夜のどこかに、もう死体があるのかもしれない。
受話器の冷たい感触が、まだ掌に残っていた。
耳の奥には、あの妙に落ち着いた声がいつまでも消えない。
若い職員は、もう一度壁の時計を見た。
午後10時を、少し過ぎている。
迷っている時間は、長くない。
彼はゆっくり息を吸い、机の上の内線電話へ手を伸ばした。
青白いランプが、その指先を静かに照らしていた。




