表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/105

第2話 午後10時の通報

10月7日、水曜日。

午後10時前――


福岡県警本部地域課の執務室には、当直の男性職員が2人だけ残っていた。


経費削減の波は、官公庁にもとっくに及んでいる。


広い室内の照明はほとんど落とされ、白い光が机の上だけを島みたいに照らしていた。

壁際には薄闇が溜まり、使われていないパソコンに繋がれたルーターだけが、青白いランプを小刻みに点滅させている。


その光は、静かな呼吸みたいだった。


「まったく、何でもかんでも経費カットだ。こんな暗い部屋で一部分だけ明るい方が、かえって目に悪い」


年配の男性職員が顔をしかめ、溜め息をつく。


若い男性職員は、ルーターの青白い点滅を横目で見ながら、気のない相槌を打った。


「家のローンだの、子どもの学費だの、先のことを考えると頭が痛い。お前も今のうちに考えとけ」


年配はそう言って、自分のバッグから1枚のパンフレットを取り出し、若い職員の机へ放った。


「不動産投資のセミナー案内だ。講師は白石とかいうやつらしい。一緒に受けてみないか?」


若い職員は一瞥しただけで、それを押し返す。


「公務員は副業禁止です」


「抜け道なんて、いくらでもあるさ」


年配は軽く笑った。


若い職員の眉間に、微かに皺が寄る。


その時だった。


プルルルル……。


固定電話が、執務室の静けさを切り裂いた。


若い職員は反射的に受話器を取る。


「はい、福岡県警地域課――」


数秒、無音。


いたずら電話か。

そう思いかけた次の瞬間、耳に届いた声に背筋が冷えた。


「人を殺して、死体を捨てました」


男か女か、判別できない。


ボイスチェンジャーでも通しているのか、金属が擦れるようにひずんだ声だった。

それなのに、言葉の運びだけが妙に落ち着いている。


酔っている感じもない。

慌てている感じもない。

まるで、決まった時刻に決まった連絡を入れているみたいな、平坦な声だった。


若い職員は、無意識に息を止めた。


ただのいたずらなら、こんなふうに耳の奥へ冷たさが残るだろうか。

なぜか、そう思った。


「場所は、箱崎埠頭。西側の倉庫街を抜けた先、岸壁沿いの空き地です」


一言一言が、妙に正確だった。


“箱崎埠頭”だけではない。

位置の言い方に迷いがない。

実際にその場所を知っている人間の口ぶりに聞こえた。


「……誰だ。今どこにいる?」


思わず問い返す。


だが、相手の声は変わらない。


「午後10時ちょうどです。行けば、わかります」


直後、通話は切れた。


「もしもし! もしもし!」


応答はない。


耳に残るのは、切れた回線の乾いた無音だけだった。


若い職員は、壁の時計を見る。


午後10時ちょうど。


その一致が、喉の奥をひりつかせた。


年配の職員が身を乗り出す。


「どうした?」


若い職員は、受話器を握ったまま答えられなかった。


「おい、何だ?」


少し強い口調で促され、ようやく受話器を置く。


「男か女かわかりません。人を殺した、と。そして死体を箱崎埠頭に捨てた、と……」


年配は一瞬だけ顔を強張らせた。

だが、すぐに口元を緩める。


「いたずらだ。よくある。俺も何回も受けた。全部ガセだ。わざわざ上に報告して確認して、全部無駄足だよ」


若い職員は、内心で反発した。


この人は、自分の経験だけを絶対視している。


たしかに、いたずらかもしれない。

だが――


「でも、あの声……」


自分でも驚くほど小さな声が漏れた。


「何だ?」


「落ち着きすぎてました。いたずらにしては……。それに、場所の言い方が妙に具体的で……」


相手が地名を口にした瞬間、頭のどこかで“本当にある”と判断してしまった。

その感覚だけが、どうしても拭えない。


年配は呆れたように肩を竦める。


「だからこそ悪質なんだよ。そうやって本物っぽく聞かせる。お前は真面目すぎる」


若い職員は立ち上がった。


「しかし、もし事実なら重大事件です。上に報告し、確認を取るべきです」


年配は壁の時計を見た。


「10時だな。俺は夜食を買ってくる。お前は少し落ち着け」


そう言って肩を叩き、執務室を出ていった。


ドアが閉まる。


執務室には、換気音だけが低く響いた。


そして、ルーターの青白い光が規則正しく瞬いている。


――箱崎埠頭。


その地名が、頭の奥で何度も反響する。


数時間前まで、街は黄砂に霞んでいた。

もし、あの電話が本当なら。

この夜のどこかに、もう死体があるのかもしれない。


受話器の冷たい感触が、まだ掌に残っていた。

耳の奥には、あの妙に落ち着いた声がいつまでも消えない。


若い職員は、もう一度壁の時計を見た。


午後10時を、少し過ぎている。


迷っている時間は、長くない。


彼はゆっくり息を吸い、机の上の内線電話へ手を伸ばした。


青白いランプが、その指先を静かに照らしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ