第1話 青い夕暮れ
10月7日、水曜日。
午後5時過ぎ――
その日の福岡は、夕暮れからしてどこかおかしかった。
季節外れの黄砂が街を覆い、空は白く濁っている。
沈みかけた西日さえ、いつものような赤みを持たず、くすんだ光をビルの隙間に滲ませていた。
渋滞に引っかかった路線バスが、のろのろと車列に紛れて進んでいく。
停止。
発進。
また停止。
そのたびに車体が鈍く揺れ、窓の外では短いクラクションや舌打ち混じりの声が、黄砂に曇った空気をざらつかせていた。
けれど、車内は妙に空いていた。
吊革はほとんど揺れず、座席にも空きが目立つ。
そのがら空きの後方、最後尾の広い座席にだけ、2人の女子高生が並んで座っていた。
「この前の水泳の県大会で3位だったんだって? さすがだよね」
「そんな簡単に言わないでよ。最後の1か月、ほんとにきつかったんだから」
「でもすごいよ。私なんて高校からラクロス始めたけど全然だし。……それよりさ、樹生くんとは、うまくいってるの?」
「うん、かなりラブラブ。そっちは? 付き合ってもう半年くらいでしょ?」
「……この前、彼の家でね」
一瞬、言葉が途切れる。
「わあっ! おめでとうございます! これはますます女に磨きがかかるぞ!」
「へへへ……」
甘酸っぱい笑い声が、空いた車内の後ろ側にふわりと漂った。
近くの中年女性が少しだけ顔をしかめて窓の外へ視線を逃がしたが、他の乗客は気にする様子もない。
2人は違う制服を着ていた。
片方はネクタイ。
片方はリボン。
別々の学校に通う友人同士らしい。
ネクタイの少女が、少し身を乗り出した。
「そうだ。今度の日曜日、ダブルデートしない? 最近ちょっと嫌なこともあったし、ぱーっと遊びたい気分なんだよね」
「嫌なこと? また“Kさん”?」
「大当たり。県大会の成績をネタに取材だとか言って、やたら距離詰めてくるの。これで3回目。本当に気持ち悪い」
「まあ……かなりの確率で、そういう人っぽいもんね」
「ちょっと、他人事みたいに言わないでよ。うち女子校だし、似たような噂、他にもあるんだから。……よし、忘れよう。ダブルデート、楽しもう!」
「もちろん。場所どうする?」
「樹生と相談して、今夜連絡するよ」
会話はまた明るさを取り戻した。
それでも、バスの速度はほとんど変わらない。
リボンの少女が、ふと窓の外を見た。
黄砂に滲んだ空の向こう。
ビルの谷間に、沈みかけた夕日がぼんやりと浮かんでいる。
その光が、スモークブルーの窓ガラスを通った瞬間だった。
夕焼けが、青く見えた。
冷たい色だった。
濡れたガラスの向こうに別の街が沈んでいるような、温度のない青。
「うわ……ちょっと、きれいかも」
つられて、ネクタイの少女も窓の外を覗く。
「ほんとだ。でも……太陽も空も、何か青すぎない? ガラスのせいだってわかってるけど、ちょっと不気味」
「気にしすぎだって。Kさんのこと考えてるから、そう見えるだけじゃない?」
けれど、その言葉は半分も届いていなかった。
リボンの少女は、窓の外から視線を外せないでいた。
青い。
ただ青いだけなのに、胸の奥に小さな棘が引っかかる。
夕焼けのはずなのに、そこには夕方の温もりがない。
まるで水の底から街を見上げているようで、息が少し苦しかった。
「Kさんのこともだけど……もうひとつ、気になることがあるんだ」
「え?」
ネクタイの少女が、バッグからスマホを取り出した。
画面に映っていたのは、青く染められた風景写真だった。
立体駐車場。
古びた一戸建て。
どこにでもありそうな景色。
なのに、そこだけ空気が違って見える。
まるで街の一部だけが、深い水の底に沈んでしまったみたいに。
「何これ……」
覗き込んだリボンの少女は、その瞬間、無意識に息を止めた。
ただの風景写真のはずだった。
なのに見ているうちに、画面の奥から逆に見返されているような気がする。
見続けてはいけないものを見てしまった時みたいに、指先がひやりと冷えた。
さっき夕焼けを見た時、胸に引っかかった小さな棘が、今度はもっとはっきりした痛みに変わる。
「先週の金曜日、知らない番号から送られてきたの。消そうと思ったんだけど、何か引っかかって」
ネクタイの少女の声は、さっきより少し小さかった。
写真には、短い文章が添えられていた。
――はじめましてエアリアルと申します。
エアリアル。
人の名前みたいでもあり、そうでないみたいでもある。
口に出した途端、どこにも馴染まない響きだった。
「エアリアル? 誰それ。いたずらでしょ」
そう言いながらも、リボンの少女はもう一度だけ画面を見る。
見れば見るほど、ただの写真には思えなくなる。
立体駐車場の影。
一戸建ての暗い窓。
何かが、そこにいる。
何かが、こちらを待っている。
そんなふうに思えてしまう。
「だよね……。家族にも樹生にも言ってないけど、考えすぎだったのかも」
ネクタイの少女は、自分に言い聞かせるように呟くと、メッセージを削除した。
画面はすぐに、普段の明るさへ戻る。
けれど――
なくなったはずの青だけが、なぜか頭の奥に残った。
バスはようやく渋滞を抜け、少しずつ速度を上げていく。
流れ始めた車窓の向こうで、青い夕暮れが静かに街を染めていた。
黄昏時。
逢魔が時。
その時間に、魔は現れるという。
けれど、この時の彼女はまだ知らなかった。
あの写真は、消えたのではない。
ただ――
画面の中から、いなくなっただけだった。
メッセージは消えた。
なのに、青だけが目に焼き付いて離れなかった。
その青が、どこか夕暮れの空よりも深く見えた。
バスの中で笑っていたネクタイの少女が、その青をもう一度見ることはなかった。
翌朝、彼女の名前は福岡県警の記録に残ることになる。
そしてその後―― “晴明女子高”の生徒たちは、彼女の死を噂として知ることになる。




