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第18話 先生、私――

10月21日、水曜日。

放課後――


佐野里穂は教科書類を机に押し込み、必要最低限のものだけをバッグに残した。


身軽になるためだ。


大好きな藤原に告白するために。


だが、1つだけ見当たらないものがあった。


バッグの中を何度探しても、見つからない。


数日前、占い師の緑川陽真里からもらった“お守り”だ。


「水曜日の日付が変わるまでは、必ず身近に置いて」


そう言われていた。


緑の布地に、金色の複雑な文字のような模様が刺繍された、手の平サイズの長方形。


迷信を信じるタイプではない。


だが、緑川の言葉には妙な説得力があった。

デザインも気に入っていて、ここ数日は常にバッグに忍ばせていた。


今朝、駅の改札前でバッグを開けた時には、たしかに目に入った。


なのに――ない。


落としたのか。

誰かに抜き取られたのか。


判断がつかない。


教室の机の中。

ロッカー。

バッグの内ポケット、外ポケット。


指先で何度も探る。

けれど、布の感触は返ってこない。


胸の奥が、じわじわと冷えていく。


よりによって今日。

よりによって、藤原に会う水曜日に。


外はすでに、いつもより少し早く放課後のざわめきが沈み始めていた。


最近は教師の見回りも増えている。

廊下を歩く足音も、事件の前より少しだけ急ぎ足だ。


皆が何かを避けるように帰っていく。


その空気の中で、里穂だけが別の理由で急いでいた。


今日はよりによって、終業のホームルーム当番が回ってきてしまい、下校が普段より1時間近く遅い。


これ以上もたつけば、計画が崩れる。


――あとで探せばいい。

――とにかく、今日は行かなきゃ。


自分にそう言い聞かせる。


不安は消えない。

だが、それを考えている時間さえ惜しかった。


里穂はお守り探しを諦め、駅へ向かった。



学校から徒歩と電車でおよそ30分。


里穂は藤原が勤務するE進学塾の前に立っていた。


腕時計は、午後5時30分を少し過ぎている。


まず確認が必要だった。


藤原が出勤しているかどうか。


1階受付横の出勤ランプボード。

名前の下のランプが点灯していれば出勤中。


里穂は回転ドアから建物に入り、さりげなく確認した。


藤原圭吾――点灯。


いる。


それだけで、胸がふわりと軽くなる。


もう帰りたくない。

このまま時間が止まればいいとさえ思った。


里穂はすぐに外へ出た。


彼が出てくるのは午後6時前後。

まだ20分近くある。


出入口近くの大きな銀杏の木のそば、3つ並ぶベンチの1つに腰を下ろした。


あと15分。

あと10分。

あと5分。


何度も腕時計を見る。


人通りの多い場所。

通行人の顔は絶えず入れ替わる。


それなのに、里穂の世界は、藤原が出てくるかどうかだけで出来上がっていた。


けれど、時々不意に、バッグの内ポケットへ指先が伸びた。


空っぽだ。


何度触っても、あの少しざらついた緑の布はない。


そのたびに、胸の奥で冷たいものが小さく揺れる。


――大丈夫。

――たまたまないだけ。

――今日だけは、そんなこと気にしていられない。


そう押しやると、次の瞬間にはまた藤原の顔を思い浮かべている。


不安は消えたのではない。

ただ、恋の熱で上から蓋をしているだけだった。


午後6時。


ほぼぴったりの時間に、藤原が現れた。


「せ、先生? 藤原先生?」


ベンチから立ち上がり、偶然を装って声を掛ける。


「あれ? 里穂か? こんなところで何をしてるんだ?」


想定通りの反応。


「この近くの書店に参考書を買いに来たんです。ちょっとマニアックなやつで、大きい店じゃないと置いてなくて」


「1人でか? 続けて事件が起きてるだろ? 気をつけないと」


厳しくも優しい口調。


里穂は唇を噛み、声を少し震わせた。


「先生……今から帰るんですか? 私、空手やってますけど……やっぱり怖いです。家の近くまで、送ってもらえませんか?」


藤原は一瞬目を泳がせた。


言うべきではない、と考えたのがわかる表情だった。


沈黙。


「電車で帰るのか?」


「はい。大橋駅です」


「大橋? 僕はその次の駅だよ」


知らなかった情報。


「そうなんですか?」


「今日は予定もない。1つ手前で降りて送るよ」


そこでもう一度だけ、藤原は何か言いかけてやめた。


距離を取るべきだと、たぶん理解している。

元教え子で、しかも今は事件が続いている最中だ。


本来なら、もっと線を引いてもよさそうなのに、彼は引き切れない。


その迷いごと受け入れてくれたことが、里穂にはたまらなく嬉しかった。


やった。


そう思った瞬間、心のどこかで、連続殺人の怖さも、お守りがなくなったことも、全部が遠ざかった。


今はただ、先生が自分のために予定を変えてくれた。


その事実だけで、十分だった。



帰宅ラッシュの電車は満員だった。


藤原と里穂は、扉近くに並んで立つしかない。


吊革に掴まる余裕もないほど人が押し合い、体と体の距離はほとんど消えていた。


藤原が咄嗟に里穂の背後へ腕をつき、押し潰されないよう庇う。


守るつもりのその姿勢が、余計に距離を近くした。


里穂の頬が、揺れるたびに藤原の胸元へ触れる。


会話はない。


ただ、彼の近くにいられるというだけで、全身が熱くなる。


こんなに人がいるのに、自分だけ別の場所にいるみたいだった。


次の駅で降りてしまえば、この時間は終わる。


そう思うと、それすら惜しい。


ふと、混雑の中でバッグが脇腹に押しつけられた。


その感触でまた、お守りのない内ポケットを思い出す。


ない。

やっぱり、ない。


ほんの一瞬だけ喉の奥が冷えた。


だが次の揺れで藤原の体温が近づくと、その不安はまた押し流された。


――今は、こっちだ。

――今だけは、考えない。


「次は大橋、大橋です――」


アナウンスが流れる。


わずか10分。


でも、里穂にとっては夢みたいに短かった。


駅を出ると、住宅街はすでに薄暗くなり始めている。


道の端に落ちる街灯の光が、ところどころ黄色く滲んでいた。


「里穂がこんな近くに住んでるとはな」


「私、引っ越したことないよ。中学の時もここ。住所くらい知ってるのかと思ってた……冗談だけど」


「冗談でも怖いよ。生徒の個人情報を細かく把握してたら引くだろ?」


「……先生になら、何でも知っててほしいかも」


言ってしまってから、少しだけ恥ずかしくなる。


でも、今日はその恥ずかしさすら甘かった。


角を曲がれば、自宅が見える。


ここだ。


里穂は大きく深呼吸をした。


今なら言える。

今、この空気のままなら。


断られたくないとか、来週のこととか、そんな順序立った考えじゃない。


ただ、今、喉まで来ているこの言葉を、もう押し戻したくなかった。


この空気を壊したくない。


でも、言わなければもっと後悔する。


胸の奥で、心臓の音がどんどん大きくなる。


「先生、私――」


その言葉の先には、

ずっと思い描いていた未来があった。


いける気がした。

今なら届く気がした。


そう思っていた。


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