第16話 緑の占い師
電車に乗り、自宅と空手道場の最寄り駅である大橋駅で降りた後も、里穂は先ほどのメールで送られてきた風景のことが頭から離れなかった。
どこか懐かしいような、胸の奥を掠めるような感覚。
それがはっきりと思い出せないまま、靄のように纏わりついている。
改札を抜けても、駅前の雑踏に足を踏み入れても、その感触だけが消えない。
空手道場へ向かうはずなのに、頭の奥のどこかだけが、まだあの青い画面に引っかかっていた。
そんなことを考えながら、駅前の通りに面した広場に差しかかった時だった。
里穂の視界に、派手なテントがいくつも飛び込んできた。
数えてみると、9つ。
それぞれの前には人だかりができていて、何やらイベントが行われているらしい。
広場の入口には大きな立て看板が立っていた。
近づいてみると、そこには――
「全国占い師コンペ」
と書かれていた。
ずらりと並んだテントが、なぜか少しだけ不気味に見えた。
だが、考えるより早く、すぐ背後から声がした。
「もしもし、お嬢さん?」
少し低めだが、どこか透き通るような女性の声だった。
振り返ると、1人の女性が静かに立っていた。
真っ黒なストレートのロングヘア。
切れ長の目に整った顔立ち。
だが左目は、白地に派手な刺繍が施された眼帯で覆われている。
衣服は全身黒で統一されていた。
明らかに、一般人とは異質な雰囲気だった。
年齢は読み取れない。
若くも見えるし、年配にも見える。
里穂は、この顔を最近のテレビや雑誌で見た記憶があった。
有名な占い師だ。
「ぜひ占っていかれませんか? よろしければ、私のブースへご案内しますよ――」
その一言を聞いた瞬間、里穂は思わず足を止めた。
断るべきだ。
今はそんな場合じゃない。
空手道場へ急がなければならない。
そう思ったのに、身体が前へ動き出した。
引き寄せられるように。
不思議なことに、人だかりがあるはずなのに、誰も2人に目を向けない。
周囲のざわめきが、急に遠のいた。
まるでこの場所だけ、別の空間に切り取られたようだった。
里穂は導かれるまま、いちばん奥のテントへ入っていった。
中は簡素だった。
中央に濃い紫の布を掛けた小さなテーブル。
向かい合わせに椅子が2脚。
促されるまま座ると、里穂は口を開いた。
「あの……有名な占い師の方ですよね? ええと……たしか……」
名前が出てこない。
「はじめまして。緑川陽真里です」
女性は、にこやかに名乗った。
「あっ、ご、ごめんなさい。ど忘れしちゃって……」
「いいんですよ。少し覚えにくい名前ですから。気になさらなくて大丈夫です」
声色に嫌味はない。
「あ、ありがとうございます。す、素敵なお名前ですよね。……それって、本名なんですか?」
取り繕うように尋ねる。
「はい。本名です。占い師はペンネームを使うことが多いですが、私はあえてそのまま使っています。この名前自体が気に入っていますので」
「へ、へえ……」
額にじんわりと汗が滲んだ。
その瞬間、里穂は我に返った。
自分は空手道場へ向かう途中だったのだ。
「そ、そういえば……私に何かご用ですか? ちょっと急いでるんですけど……」
緑川は静かに言った。
「あなたは今、2つのことで頭がいっぱいではありませんか?」
里穂の胸が跳ねる。
「1つ目は――恋の悩み」
「えっ? ま、まあ……」
「それは問題ありません。あなたくらいの年齢であれば、自然なことですから」
緑川は穏やかに続ける。
「ですが、もう1つの件は、あなたに大きな災いをもたらす可能性があります。ただし――選択次第で回避は可能です。占ってみませんか?」
里穂は眉をひそめた。
「え? でも、お金かかるんでしょ? あそこに“鑑定料3,000円”って書いてあるし」
小さな料金表を指差す。
緑川は微笑んだままだ。
「今回は特別です。無料で鑑定いたします」
そう言ってバッグからカードを取り出す。
素早い手つきでシャッフルし、21枚を扇状に並べた。
「この中から、直感で1枚だけ裏返してください」
里穂は一瞬迷い、いちばん左のカードを裏返した。
「――運命の輪、逆位置」
緑川は静かに呟いた。
そして顔を上げる。
「あなたに届いた“青い写真”――あれが、もう1つの問題です」
息が止まった。
さっきまで胡散臭いと思っていたはずなのに、今は違う。
藤原のこと。
そして、あの奇妙な青い画像。
すべて見透かされているような感覚。
空手道場へ急ぐ気持ちは、完全に消えていた。
「じゃ、じゃあ……どうすればいいんですか?」
里穂は思わず身を乗り出した。
緑川はゆっくりと息を吸い込む。
「来週の水曜日の日付が変わるまでは、必ず身近にこれを置いてください」
そう言って差し出したのは、緑の布地に金色の複雑な模様が刺繍された、小さな長方形のお守りだった。
「これで災いを完全に防げるわけではありません。ですが、無策よりはずっといい」
里穂はお守りを見つめた。
災い。
青い写真。
どれも気味が悪い。
本当なら、ここで引き返すべきだったのかもしれない。
こんなふうに見透かされて、曖昧な言い方のまま何かを渡されて、怖くならない方がおかしい。
なのに――
「恋の悩みは問題ありません」
さっき言われたその一言だけが、なぜかいちばん胸に残っていた。
緑川は、藤原とのことまで見えている。
そのうえで、“そちらは大丈夫”と言った。
その言葉を思い出した瞬間、里穂の肩からふっと力が抜けた。
青い写真のことより先に、その保証の方へ意識が傾いていく。
いちばん欲しかった答えだけが、胸の内側にするりと入り込んでくる。
ならば、信じたい。
青い写真の件は、たしかに怖い。
でも、恋の方はきっとうまくいく。
そう言われた気がした。
里穂は、自分でも気づかないうちに、信じたい方だけを選んでいた。
「……これ、持っていれば本当に大丈夫なんですよね?」
「あなた次第です」
緑川はそう答えた。
肯定でも否定でもない、その曖昧さ。
本来なら、もっと警戒すべきだったのかもしれない。
眼帯の下の左目が、一瞬どんなふうにこちらを見ているのか想像してしまい、背中が微かに冷えた。
だが、その冷たささえ、次の瞬間には押し流される。
恋は大丈夫。
そこだけは、もう聞いてしまった。
里穂はお守りを受け取った瞬間、少し安心してしまった。
完全には信じていない。
でも、“これで大丈夫かもしれない”と思える材料が欲しかった。
そしてそれが手に入った今、また藤原のことを考えられる。
それだけで十分だった。
里穂はテントを出ると、お守りをバッグの内ポケットへしまった。
青い写真の不快さは、まだ消えていない。
けれど、その上に薄い膜が一枚かかったような気がした。
守られたわけじゃない。
ただ、守られるかもしれないと思えてしまっただけだ。
それでも、その“かもしれない”にすがるには十分だった。
――これで平気。
――少なくとも、水曜日までは。
そう自分に言い聞かせながら、里穂は空手道場へ向かった。




