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第14話 友達でしょ?

10月16日、金曜日――


目覚めた瞬間から、里穂の頭は藤原のことでいっぱいだった。


朝、制服に袖を通す時も。

鏡の前で髪を整えている時も。

登校中に信号待ちをしている時も。


気づけば、水曜日のことばかり考えている。


どうやって偶然を装うか。

どのタイミングで「怖いから送って」と言うか。

どんな顔で言えば、いちばん断りにくいか。


自分でも呆れるくらい、恋のことで頭が埋まっていた。


そのせいで、授業中でさえ上の空だった。


「佐野! ニヤニヤして楽しそうだな……そんなに俺の授業が面白いのか?」


それは5限目の世界史の時間だった。


教壇から響く教師の声が、やけに耳障りに感じられた。

里穂は強引に現実へ引き戻される。


「よし、じゃあ佐野に質問だ! 第二次世界大戦が勃発するきっかけになった出来事は? 教科書は見るなよ。さっきからずっと説明していたぞ。授業が面白くてニヤけていたくらいだから、当然わかるよな?」


学内成績は下から数えた方が早い。


しかも、ついさっきまで恋の妄想に浸っていた里穂にとって、この問いはあまりにも重かった。


「え、ええと……」


冷や汗が滲む。


教師の口元には、嫌らしい笑みが浮かんでいた。

答えられないと確信し、その時間を楽しんでいる顔だった。


その時――


ひらり。


左の窓側から、細い紙片が机の上に滑り込んできた。


そこには、きれいな字で簡潔な文章が書かれている。


明らかに、今の質問の答えだ。

幸い教師は気づいていない。


里穂は一瞬でそれを読み取った。


「どうした? わからないのかな?」


「わ、わかります! ドイツのポーランド侵攻……です」


「……正解だ。まあ、いくら俺の授業が面白いからといって、次からはニヤニヤするなよ」


教師は鼻を鳴らし、話を先へ進めた。


里穂は小さく息を吐いた。


助け船を出してくれたのは、左隣の甲斐瑠璃子だった。


生徒会長。


教室の空気の中で、いつも少しだけ温度の違う場所にいるような女の子。


ピンク縁の眼鏡にツインテールという可愛らしい見た目のくせに、妙に整いすぎていて、誰かと雑に笑い合っている姿があまり思い浮かばない。


成績は常に上位。

教師受けもいい。

校内中の噂に、きちんと乗らない。


里穂と同じT塾出身。


里穂はその頃から、瑠璃子が自分に向ける視線の質が、他の友達とは少し違うことに薄々気づいていた。


だから、なるべく近づかないようにしていた。


笑って話すことはある。

でも、自分から距離を詰めることはない。


そう決めていた。


それでも――

助けられたのは事実だ。


礼くらいは言うべきだろう。


けれど、今この場で瑠璃子に話しかけることを考えた瞬間、胸の奥に小さなためらいが生まれた。


なるべく近づきたくない。

でも、何も言わないのも感じが悪い。


その2つがぶつかった末に、里穂はそっと左を向いた。


窓から入り込む秋風が、瑠璃子の少し癖のある髪を柔らかく揺らしている。


彼女は何事もなかったかのように教科書へ視線を落としていた。

さっき紙を滑らせてきたのが、本当にこの人だったのか疑いたくなるくらい自然だった。



授業が終わり、教師が教室を出ていく。


周囲のざわめきが一気に戻る。


「あの……さっきは、ありがとう……」


里穂が小声で言うと、瑠璃子はすぐに顔を上げた。


「ふふ。里穂が困ってるの、わかったから。友達でしょ? 助けるの当然だよ」


柔らかい声だった。


笑みも、言葉だけ聞けば優しい。


だが――

目は、笑っていなかった。


その事実に、里穂の背筋がひやりと冷えた。


指先が、机の縁の上で一瞬だけ強張る。


友達。


たしかに、そう言った。


でも、その響きの中には、単なる友情だけでは済まない何かが混ざっているように思えた。


助けたい、というより――

自分が助ける側でありたい。


自分だけは、里穂の“困った顔”を知っていていい。


そんな妙な独占欲が、言葉の端に滲んでいる気がした。


もちろん、考えすぎかもしれない。


でも、瑠璃子と向かい合っていると、そういう“考えすぎ”をしたくなる空気がある。


「それと、気をつけてよ。うちの学校、もう2人も殺されてるんだから。不安なら、いつでも力になるよ。じゃあ、私はこれで――」


瑠璃子は教科書を静かに閉じ、荷物をまとめて立ち上がった。


その所作のひとつひとつは丁寧なのに、妙に隙がない。


教室のどこかではまだ、誰かが事件のことを話していた。


斉藤恵梨香。

三田村安奈。


その名前だけが、最近は日常会話みたいに軽く飛び交う。


そんな空気の中で、「力になるよ」という瑠璃子の声だけが、不自然に近かった。


すれ違いざま――


彼女の指先が、里穂のスカートの裾に軽く触れた。


一瞬だけ。

本当に軽く。

わざとか、偶然か判断できない程度の長さで。


鳥肌が立った。


その指先には、ただの接触以上の意味がある気がした。


触れて確かめたかったのか。

引き留めたかったのか。

それとも、自分のものではないと知りながら触れたかったのか。


そこまではわからない。


わからないから、余計に気味が悪い。


「頼れ」という言葉の響きも、今さらになってじわじわ不快になってきた。


まるで、自分の不安や弱さを先回りして抱え込もうとするみたいで。


ドアの方へ歩いていく背中を睨みながら、里穂は思わず小さく舌打ちした。


――何なの、あいつ。


里穂は空手の有段者だ。


襲われたところで、たいていの相手なら返り討ちにできる。

少なくとも、自分ではそう信じている。


だから、“守る”とか“頼れ”とか、勝手に“弱い側”へ置かれるのは好きじゃない。


しかも相手が瑠璃子だと、なおさらだった。


それでも――


三田村安奈。

斉藤恵梨香。


同じ学校の生徒が、すでに2人殺されている。


親しくはなかった。

だが連日の報道で、名前だけは嫌でも脳裏に刻まれていた。


教師たちの表情も、廊下を歩く生徒たちの声量も、事件の前とはもう少しずつ違っている。


学校全体が、見えないものに薄く警戒している。


教室の窓の外では、秋の空が高く澄んでいる。


空の青さはきれいなはずなのに、最近はそれさえ少し冷たく見えた。


里穂は自分のスカートの裾を、指先で軽く払った。


さっき触れられた場所に、まだ妙な感触が残っている気がしたからだ。


一度払っても、消えない。


席を立って荷物をまとめても、歩き出しても、そこだけ意識が残る。


その違和感の正体を、里穂はうまく言葉にできない。


ただ、瑠璃子の“友達でしょ?”という言葉だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。


そしてそれでも――


里穂の頭の中で、最後に勝ったのは藤原のことだった。


水曜日。

午後6時。

塾の前で待つ自分。

「怖いから送って」と言う声。


瑠璃子の言葉も、裾に残った感触も、完全には消えない。


それでも里穂は、そちらではなく次の水曜日の方を選んでしまう。


耳にはまだ、“友達でしょ?”が残っている。


スカートの裾にも、払ったはずの違和感が残っている。


それでも彼女は、そのまま先へ進もうとした。


それがどれほど危ういことか――

この時の里穂は、まだ知らない。


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