第13話 水曜日の約束
10月15日、木曜日――
城戸谷留美が事情聴取を終えて帰宅した、その夜。
佐野里穂の6畳ほどの部屋では、ベッド脇の電気スタンドだけが煌々と光っていた。
薄暗い部屋の中で、彼女は仰向けになり、何度も寝返りを打っている。
ほんの数時間前から――
“ある人物”への恋の衝動が、どうしても抑えきれなくなっていた。
晴明女子高の3年生。
空手2段。
ショートカットが似合う、ボーイッシュな少女。
学校では帰宅部だが、金曜日と土曜日は自宅近くの道場に通っている。
そんな男勝りの里穂が、今は胸の奥から込み上げてくる鼓動をどうにもできずにいた。
息が浅い。
呼吸が速い。
布団の中で膝を折り、また伸ばし、落ち着こうとするたびに、かえって身体の熱だけがはっきりする。
壁一枚向こうは、5歳年下の妹の部屋だ。
普段はクールな姉で通している。
こんなふうに、布団の中で身をよじりながら1人で興奮しているのを察知されるのは癪だった。
里穂は枕に顔を押しつけ、声になりかけた息を飲み込む。
その恋の相手は――
藤原圭吾。
中学時代に通っていた進学塾の講師。
年齢は、里穂より10歳近く上だ。
*
数時間前――
里穂は学校帰り、福岡市中央区天神のデパートに立ち寄っていた。
スマホのストラップを新調するため、雑貨売り場を右往左往していたのだ。
だが、優柔不断な性格が災いし、なかなか決められない。
棚を眺めながら後ずさりした、その瞬間。
「あっ……ご、ごめんなさい!」
誰かにぶつかった。
「いえ、大丈夫ですよ」
反射的に謝りながら顔を上げた里穂は、その瞬間、息を呑んだ。
目の前に立っていたのは、背の高い男性だった。
細身のスーツ。
柔らかな物腰。
どこか少し疲れたような、それでいて優しい目元。
その顔を見た途端、周囲の音がふっと遠のいた気がした。
売り場のざわめきも、館内放送も、すべてが一瞬だけ膜の向こうへ退く。
「あれ? もしかして里穂か? 覚えてる? T塾の藤原だよ」
「えっ? 藤原先生? そ、そうです! 里穂です! 佐野里穂です!」
偶然だった。
本当に、ただの偶然のはずだった。
でも里穂には、それが運命のいたずらみたいに思えた。
早熟な彼女は中学生の頃から、藤原に恋をしていた。
塾で教壇に立つ姿を見上げるたび、胸がそわそわした。
真面目な口調も、時々見せる笑い方も、全部が好きだった。
そして実際、告白もしている。
中学卒業直前。
最後の授業が終わった後。
2階教室の外のベランダで待ち伏せした。
けれど返ってきたのは、
「気持ちは嬉しい。でも君は妹みたいなものだよ」
という、あっさりした言葉だった。
振られた。
きっぱりと。
あの日の春の風の冷たさまで、里穂はまだ覚えている。
それでも。
「3年ぶりだな。すっかり女らしくなったな」
藤原がそう言った瞬間、胸の奥で燻っていた火が、一気に燃え上がった。
女らしくなった。
その何気ない一言だけで、昔の失恋が“今なら違うかもしれない”に変わる。
そんな単純さを、自分でも笑いたくなるくらい、里穂はまだこの人が好きだった。
心臓が、うるさい。
喉が少し渇く。
さっきまで迷っていたストラップのことなんて、頭からきれいに消えていた。
「あの……先生。お願いがあるんですけど」
「何だ?」
「久しぶりなんで、ご飯でも。今夜、両親の帰りが遅くて……」
咄嗟の嘘だった。
本当は、母親は普通に家にいる。
でも里穂は、こういう時にためらうより先に口が動くタイプだった。
藤原は、押しに弱い。
里穂はそれを知っている。
「……まあ、俺もまだ夕食前だし」
一度だけ、中学時代に昼食をご馳走になったことがあった。
その時と同じ、少し困ったような顔。
少し迷って、最後には折れてくれる感じ。
――やっぱり、そうだ。
里穂の胸が高鳴る。
だが、その直後。
藤原はふっと表情を曇らせた。
「でも、君は晴明女子だろ? 今、大変だよな。今日も1人亡くなったってニュースで――」
その言葉で、里穂の頭の片隅にだけ、学校のざわめきが戻った。
同じ学校の生徒がまた殺された。
廊下ではその話ばかりで、教師たちの顔色もずっと硬かった。
母親も今朝、「しばらく寄り道しないで帰りなさい」と口うるさかった。
けれど、その全部が今は遠い。
藤原が目の前にいる現実の方が、ずっと強かった。
「大丈夫です。私、空手やってるし」
里穂は、軽く笑ってみせた。
そして気づけば、自然に半歩だけ距離を詰めていた。
藤原の方も、そこで、すぐには離れなかった。
その近さが一瞬だけ妙に生々しく見えて、普通なら少し身構える場面だったのかもしれない。
教師と元教え子。
今の福岡。
しかも人目のある売り場の中だ。
本来なら、藤原の方が一歩引いてもよさそうだった。
なのに彼は、その線をすぐには引かなかった。
けれど里穂には、それが危うさではなく、“まだ嫌われていない証拠”にしか思えなかった。
「……わかった。ただし遅くはならないぞ」
彼は折れた。
里穂は、心の中で小さくガッツポーズをした。
*
2人はデパ地下の喫茶店へ向かった。
入口近くのテーブル席。
向かい合って座るだけで、里穂の心臓はうるさかった。
フレンチトーストのセット。
藤原はホットコーヒー。
猫舌の里穂はアイスコーヒー。
グラスに浮いた氷が、微かに音を立てる。
「先生、まだT塾なんですか?」
「いや、あそこは君の卒業した年の4月で辞めた。今はE進学塾」
「全国的に有名なとこですよね?」
「まあな。でも大手は融通が利かない。夜の講習を受け持っていない水曜日だけは午後6時に上がれるけど」
水曜日。
その言葉が、里穂の頭の中に深く刻まれる。
水曜日。
午後6時。
その情報が耳に入った瞬間、胸の高鳴りが別の熱に変わった。
ただ嬉しいだけではない。
もっと具体的で、もっと現実的な形に恋が組み上がっていく感じだった。
里穂はストローを唇に当てたまま、さりげなく彼の左手を見る。
薬指に指輪はない。
「先生、結婚は?」
「してない。付き合ってる相手もいないよ」
確認完了。
チャンスだ。
再告白しよう。
今度は、昔みたいに真正面からぶつかるんじゃない。
もっと上手くやる。
もっと、断りにくい形で。
そう考えた瞬間、里穂の頭の中で、恋は作戦に変わった。
*
その夜。
天井を見つめながら、里穂は布団の中で作戦を練っていた。
空手の試合と同じだ。
勝つためには、組み立てがある。
水曜日。
午後6時退勤。
塾前で待ち伏せ。
偶然を装う。
そして――
「怖いから送って」
そう頼めばいい。
今の福岡では、それは不自然な言い訳ではない。
むしろ、女子高生がそう言うのは当然に見える。
怖がるのは格好悪い?
いや。
今回はそれを利用すればいい。
塾の最寄り駅まで徒歩10分。
電車で約10分。
駅から自宅まで徒歩15分。
合計25分以上。
告白するには、十分すぎる時間だ。
藤原は押しに弱い。
それは、3年前からずっと知っている。
布団の中で考えがそこまで進んだ時、里穂は小さく息を吐いた。
胸の鼓動はまだ速いままだ。
頭の中では、水曜日の夜道を並んで歩く自分と藤原の姿が、何度も何度も再生されていた。
外では、女子高生連続殺人が起きていた。
同じ学校の生徒が死に、ニュースは騒ぎ、親も教師も神経を尖らせている。
夜道を1人で歩くな。
寄り道をするな。
水曜日は特に気をつけろ。
そんな空気が、街全体に薄く広がっている。
それなのに里穂の頭の中は、恋の算段でいっぱいだった。
事件の恐ろしさを知らないわけではない。
ただ、それよりも、やっと巡ってきたこの機会を逃したくない気持ちの方が勝っていた。
時計を見る。
午前0時。
次の水曜日まで、あと5日。
その5日が、どれほど重く、どれほど取り返しのつかない時間になるのか――
彼女はまだ、知らない。




