第104話 青の残滓
最後の事件が発生してから、約5か月後――
4月最初の土曜日。
午前9時過ぎ。
真田瑞希は、福岡空港で小早川陽介たち5班のメンバーに見送られていた。
真田は3月末付で、香港の警察機関へ出向する辞令を受けていた。
晴明女子高の生徒たちが犠牲になった連続殺人事件は、その後も目立った進展はなく、被疑者死亡のまま、事実上の終息へ向かっていた。
誰もが、複雑な思いを抱えていた。
真実に近づこうとすればするほど、かえって遠ざかっていく。
だが、いつまでもひとつの事件だけに縛られてはいられない。
新しい事件は次々に起き、捜査は日ごとに上書きされていく。
この5か月の間に、晴明女子高の事件は、ゆっくりと、しかし確実に捜査の中心から外れていった。
「皆さん、わざわざ見送りに来てくださって……」
真田が申し訳なさそうに口を開く。
「この2年間、皆さんと一緒に仕事ができたこと――」
少しだけ言葉を選ぶ。
「特に、あの女子高生連続殺人事件を一緒に追えたことは、きっと一生忘れないと思います」
真田は、5班の面々の顔をひとりずつ見た。
その一瞬だけ、誰もすぐには言葉を返せなかった。
空港のざわめきだけが、彼らの沈黙の周りを流れていく。
最初に声を出したのは安山潤一郎だった。
「真田さんは、もっとでかい仕事をするキャリアになるよ」
片目を瞑って笑う。
「辛いことがあったら、俺たちの顔でも思い出してくれ」
「真田さんって、あんまり“キャリアっぽく”なかったですよね」
須賀修一が笑う。
「俺は、すごく仕事やりやすかったです」
「香港かあ」
矢野一哉が首を傾げる。
「向こうって、やっぱ英語なんですか? 真田さん、喋れるんです?」
「学生の頃、イギリスに数か月だけホームステイしたことはあるけど……」
真田は少し照れたように言う。
「今は、全然」
「えっ、それ大丈夫なんですか?」
清水楓がすぐに食いつく。
「向こうの仕事、英語でしょ?」
その言い方に、みんなの間で小さな笑いが起きた。
真田は清水を見て、肩を竦める。
「最初の半年は語学研修があるの。そこで徹底的に叩き込まれるらしいから、後は気合で何とかするわ」
「……真田さんらしいですね」
最後にそう言ったのは、小早川だった。
真田はその声に小早川の方を向くと、改めて頭を下げた。
「小早川さん……この2年間、本当にお世話になりました」
小早川は、照れたように視線を逸らした。
結局、気の利いた言葉は何ひとつ返せなかった。
だが真田には、それで十分だった。
言葉にしなくてもわかるものがある。
それだけの信頼は、2人の間にもう出来上がっていた。
やがてアナウンスが流れる。
「午前10時10分発、香港行き●●●便にご搭乗予定のお客さまは、国際線▲番搭乗口までお越しください――」
真田はもう一度全員へ頭を下げた。
そして、人の流れの中へ入っていく。
その背中はすぐに空港の雑踏へ紛れ、やがて見えなくなった。
*
真田の姿が完全に見えなくなってから、安山が不意に小早川へ声をかけた。
「小早川、おまえ……ここ数日ちょっと様子がおかしいな」
小早川の肩がびくりと揺れる。
安山は口元を緩めたまま続けた。
「真田さんがいなくなるのは正直堪えるが、それとは別に……おまえ、何か“嬉しいこと”でもあったんじゃないか?」
何かを察したような、嫌な笑みだった。
小早川は明らかに動揺し、慌てて他の3人へ言った。
「す、すまん。おまえたち、ちょっとヤスさんと2人にしてくれないか?」
3人は一瞬きょとんとしたが、すぐに薄く笑ってその場を離れていった。
人払いが済むと、小早川は声を潜める。
「ヤスさん……誰にも言わないでくださいよ」
安山は、わざとらしく真顔になる。
「実は……」
小早川は少し言いづらそうに頭を掻いた。
「元嫁と、復縁することになったんです」
その瞬間、安山の顔がぱっと綻んだ。
「よかったじゃねえか!」
思わず身を乗り出す。
「同僚の弁護士と一緒になるとか、そんな話じゃなかったのか?」
「その弁護士ってのが曲者だったらしくてね」
小早川は苦笑した。
「複数の女に同じようなこと言ってたみたいです。そんな男に引っかかりかけるなんて……あいつもバカですよ」
言葉は辛辣だったが、顔は明るい。
「この後、妻と子どもたちと、久しぶりに4人で会う約束なんです」
小早川にしては珍しく、声が少し弾んでいた。
安山はそんな小早川の肩を軽く叩く。
「今度こそ、離すなよ」
*
安山と別れた小早川は、空港のタクシー乗り場で車を拾った。
「福岡市動物園まで」
後部座席に身を沈めると、車窓の景色が流れ始める。
その景色をぼんやり見ているうちに、晴明女子高の事件がまた頭に戻ってきた。
表向きには解決した。
だが、残ったものは多い。
原口和人に支払われた金の出どころ。
情報解析技官・曽我稔彦によれば、リリスは特殊なアプリを使っていた形跡があるが、解析は不可能。
大塚隼人の供述にあった“依頼主”とやらが支払ったのか。
そもそも、その“依頼主”の正体さえわからない。
また、甲斐瑠璃子のスマホとパソコンには、ある一定期間だけ不自然に消去された痕跡があり、そこだけ完全に復元できなかった。
さらに――
事件に使われた飛ばし端末のうち、いくつかは最後まで回収できていない。
被害者たちのスカートも、どこへ消えたのかわからない。
どれも、書類の上では“未整理事項”にすぎない。
だが小早川にとっては、まだどこかに残っている青の欠片みたいなものだった。
だが、今さらどうにもできなかった。
考え込んでいるうちに、約束の場所である福岡市動物園が近づいてくる。
その途中、浄水通で信号に引っかかった。
何気なく窓の外を見ると、荘厳な佇まいの教会が目に入った。
敷地の中では、1人の青年が何人かの子どもを相手に話をしている。
どこかで見たような顔だった。
そして、それ以上に――
自分は以前、この教会を訪れたことがあるような気がした。
そこで、誰かに会った気もする。
だが、思い出せない。
小早川は小さく眉を寄せた。
気のせいだ。
そう自分に言い聞かせる。
やがて信号が変わり、タクシーは再び走り出した。
それでも小早川は、しばらく首を後ろへ向けたまま、その教会を見続けていた。
窓ガラス越しだったせいかもしれない。
景色が、ほんの少しだけ青く見えた。
その残滓は、小早川だけの胸に残ったのではなく、城戸谷留美たちが生き延びた後の時間にも、まだ薄く沈んだままだったのかもしれない。




