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第105話(最終話) プロポーズ

真田瑞希が香港へ発ってから、約1年後――


遠い福岡では、もう誰も青い写真の話を口にしなくなっているのかもしれない。

それでも、あの街で生き残った少女たちの中には、きっと今も、消えない青が残っている。


忘れることは、救いではない。

けれど、忘れないまま前へ進むことはできる。



東京都大田区の賃貸マンションの一室。


葛木加奈子の部屋を、親友の鐘ヶ江円香が訪ねていた。


リビングのテーブルには、湯気の立つ紅茶と、鐘ヶ江が持ってきた小ぶりのケーキが並んでいる。

午後の柔らかい光が、カップの縁を静かに照らしていた。


「加奈子、髪切ったんだ」


向かいに座る葛木の顔を見ながら、鐘ヶ江が言う。


葛木の長かった髪は、肩の辺りで揃うくらいまで短くなっていた。

以前より、少しだけ表情が見えやすくなった気がする。


「イメージチェンジ」


葛木はすました顔で答えた。

けれど、ほんの少しだけ照れているようにも見えた。


「職場復帰して、もう1年か」


鐘ヶ江は紅茶を一口飲む。


「よく頑張ったよ」


「まあね」


葛木もカップに手を伸ばした。


「でも、不思議なんだ」


そこで少し言葉を切る。


「自宅療養してた1年の間――ところどころ、記憶が曖昧な時期があるの」


鐘ヶ江は目を丸くした。


それから、何かを思い出したように天井を見上げる。


「……実はさ、私も」


「え?」


「同じくらいの時期だったと思う」


鐘ヶ江は指先でカップの縁をなぞる。


「誰かを取材した気がするんだよね。でも、その相手がどうしても思い出せない」


小さく笑う。


「なのに、その人、すごく魅力的だった気がするんだ。あと、通っただけで妙に懐かしく感じる場所とかもあってさ」


言い終えると、鐘ヶ江は紅茶を飲み干した。


「本当に不思議だね」


葛木は何も言わず、鐘ヶ江のカップに紅茶を注ぎ足した。

温かな液体が、静かな音を立てる。


「ところでさ」


鐘ヶ江が探るような笑みを浮かべた。


「“報告したいことがある”って、あれ何?」


その言葉に、葛木の頬が少し赤くなる。


「じ、実は……」


珍しく、言葉に詰まった。


鐘ヶ江は笑みを崩さない。

もう半分くらい、答えをわかっている顔だった。


「今日の18時に、彼と新宿NSビルの最上階で待ち合わせしてるんだ」


葛木は視線を泳がせる。


「大事な話があるって……」


鐘ヶ江の表情がぱっと明るくなる。


「えっ、それ、間違いなくプロポーズでしょ!」


思わず身を乗り出す。


「付き合って、そろそろ1年だよね?」


「……わからないよ」


葛木はすぐには笑えなかった。


「もしかしたら、別れるって話かもしれないし」


その一瞬だけ、表情が曇る。


鐘ヶ江はフォークでケーキを小さく切り分けながら首を振った。


「別れるのに、そんな場所へ呼び出さないって」


口へ運ぶ。


「期待していいと思うけどな」


葛木は苦笑した。


「だよね……」


まだ不安は残っている。

けれど、期待も隠しきれていなかった。


「で、さ」


葛木は話題を変えるように言った。


「相談があるんだけど」


そう言って立ち上がると、寝室のクローゼットから服を抱えて戻ってくる。


水色の落ち着いたジャケット。

同じ色の、少し短めのスカート。


「いろいろ迷ったんだけど、これを着ていこうと思って」


服を胸元に当てる。


「ずいぶん前に買ったやつなんだけど、何となく……これがいい気がして」


鐘ヶ江はケーキを頬張りながら、大きく頷いた。


「うん、いいと思う」


ニッと笑う。


「何となく、“加奈子らしさ”が出てる」


その言葉に、葛木の表情は少しだけ明るくなった。



午後6時少し前――


葛木は、新宿NSビル最上階の高級レストランへ足を踏み入れた。


その足取りには、隠しきれない緊張があった。


店内のいちばん奥、窓際の席に座っていた男が、葛木の姿に気づいて立ち上がる。

長身で、整った顔立ち。

黒いスーツに、水色のネクタイ。


ネクタイは、以前葛木が彼の誕生日に贈ったものだった。


彼は、少し照れたように手を振る。


「ごめん。急に呼び出して」


そう言って、葛木を向かいの席へ促した。


壁一面のガラスの向こうには、都内の夜景が広がっている。

びっしり並ぶビル群の窓が、小さな光の粒になって瞬いていた。


テーブルの上には、白ワインと氷の入ったグラスが2つ、すでに用意されている。


葛木が席につくと、男は静かに口を開いた。


「実は――」


そこで、一度言葉を止める。


葛木は無意識に背筋を伸ばした。


「今年の10月付で、シンガポールへ転勤する内示が出た」


その言葉に、葛木はすぐに反応できなかった。


頭の中が、一瞬だけ真っ白になる。

胸の奥が、ひやりと冷えた。


だが、数秒遅れて、ようやく口を開いた。


「そ、そう……」


ぎこちない笑顔を作る。


「おめでとう。出世コースじゃない」


明らかに、取って付けたような台詞だった。


男はその表情を見て、一瞬だけ視線をテーブルへ落とした。


それから、意を決したように言う。


「君も――一緒に来てほしい」


そう言うと、脇に置いていた鞄を開ける。

少したどたどしい手つきで、小さな箱を取り出し、テーブルの上に置いた。


「開けてみてくれ」


葛木は、震える指でそっと箱を開いた。


中に収まっていたのは――

小さなダイヤモンドをあしらった、プラチナの指輪だった。


「結婚しよう」


男は葛木の顔をまっすぐ見て、短くそう言った。


そのまま白ワインのグラスを持ち上げ、葛木の前へ差し出す。


葛木は顔を赤らめ、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。


ガラスの向こうに広がる夜景が、さっきまでとは違うものに見える。

世界そのものの輪郭が、少しだけ柔らかくなったようだった。


やがて、葛木は彼の方へ向き直る。


その顔には、もうためらいはなかった。

満面の笑みが浮かんでいた。


自分のグラスを持ち上げる。

軽く、彼のグラスへ触れさせる。


小さな音が鳴り、氷が揺れた。


「はい……」


葛木は一度だけ呼吸を整えた。


「よろしくお願いします」


そして、ほんの少しだけ目を細めて続ける。


「ありがとう――白石さん」


グラスの中の白ワインが、照明を受けて静かに白く揺れていた。


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