第九話
一九四一年十二月十五日。
南シナ海。
夜明けの海は静かだった。
数日前まで続いていた激しい空襲と砲火が嘘のように、海面には穏やかな波だけが広がっている。
しかし、その静けさの下では、無数の艦隊が動き続けていた。
第三艦隊旗艦《天城》。
艦橋。
有馬中将は海図を見つめていた。
東洋艦隊主力撃滅。
それによって南方作戦は大きく前進した。
だが、戦いそのものはまだ始まったばかりだった。
「マニラ方面上陸作戦、順調に進行中」
通信参謀が報告する。
「コレヒドール島砲撃も継続中」
「輸送船団被害は」
「軽微です」
有馬は静かに頷いた。
東洋艦隊撃滅の最大の意味。
それは輸送船団の安全確保だった。
南方作戦は輸送が止まれば終わる。
兵。
燃料。
弾薬。
食料。
全て海から運ばねばならない。
「第四艦隊は?」
「台湾―フィリピン間対潜哨戒を継続」
「《龍鳳》航空隊、敵潜水艦一隻撃破報告」
黒瀬参謀長が小さく笑った。
「第四艦隊らしい戦果ですな」
第四艦隊。
補助機動部隊。
派手さはない。
だが、今の日本海軍にとって最も重要な艦隊の一つだった。
◇
第四艦隊。
空母《龍鳳》。
飛行甲板では対潜哨戒機が帰投していた。
搭乗員たちは疲れていた。
東洋艦隊戦ほどの華やかさはない。
だが彼らは知っている。
輸送船団を守る者がいなければ、前線は飢える。
「潜望鏡発見時は肝が冷えましたよ」
若い搭乗員が苦笑する。
整備兵が笑った。
「撃沈できたんだ、上出来だろ」
《龍鳳》艦橋。
片桐少将は静かに海を見つめていた。
「地味な任務ですな」
参謀が言う。
「だが必要だ」
片桐は即答した。
「派手な勝利だけでは戦争は続かん」
その言葉には実感があった。
南方海域は広い。
輸送線も長い。
それを守るには、空母も、駆逐艦も、軽巡も全て必要だった。
◇
一方。
第一機動部隊。
《赤城》。
飛行甲板では損傷機修理が続いていた。
東洋艦隊戦の代償は小さくない。
被弾機多数。
搭乗員損耗。
整備員疲弊。
だが艦内の空気は高揚していた。
「英戦艦二隻撃沈」
その事実はあまりにも大きい。
士官食堂でも、その話題で持ち切りだった。
「だが次は米軍だぞ」
古参搭乗員が言う。
若い搭乗員たちの顔が引き締まる。
英艦隊とは違う。
アメリカは工業力が桁違いだった。
「だからこそ艦隊を休ませる時間が必要だ」
第一機動部隊司令官は整備状況報告を見ながら呟く。
「次は長くなる」
◇
午後。
第三艦隊《天城》。
「第一艦隊より入電」
通信参謀が振り返る。
「香港方面作戦、概ね終了」
「第一艦隊は南下準備中」
続いて。
「第二艦隊も南シナ海方面へ合流予定」
黒瀬が海図へ目を向ける。
「艦隊が繋がっていきますな」
「ああ」
有馬は頷いた。
第一艦隊。
第二艦隊。
第三艦隊。
第四艦隊。
そして各機動部隊。
今、日本海軍は単独艦隊ではなく、“艦隊群”として動き始めている。
それが今回の最大の変化だった。
◇
夕方。
マニラ沖。
上陸支援中の艦隊では、旧式戦艦群が砲撃を続けていた。
《伊勢》。
《日向》。
《扶桑》。
《山城》。
轟音。
砲煙。
巨大な水柱。
沿岸砲台が次々と沈黙していく。
その上空では、《龍驤》航空隊が哨戒を継続していた。
「敵機接近なし!」
「制空権維持中!」
旧式艦。
新型艦。
軽空母。
中型空母。
全てが役割を分けながら動いている。
それは、かつての“一点集中艦隊”とは違う海軍だった。
◇
夜。
第三艦隊。
艦橋外。
有馬は煙草へ火をつけていた。
海は静かだった。
その時。
黒瀬が隣へ立つ。
「東洋艦隊戦、各艦隊へかなり影響を与えております」
「どういう意味だ」
「皆、“連携”を意識し始めています」
有馬は黙って聞く。
「第一機動部隊は第二を待ち、第二は第三へ繋ぐ」
「第四艦隊は補給線を守り」
「陸上機は海を覆う」
「艦隊が単独で戦っておりません」
有馬は静かに海を見つめた。
確かにそうだった。
今回の勝利は、一つの艦隊だけでは不可能だった。
誰かが接触を維持し。
誰かが攻撃し。
誰かが護衛し。
誰かが補給を守る。
全てが繋がって初めて成立した。
「……海軍が変わり始めているな」
有馬が呟く。
黒瀬も静かに頷いた。
◇
その頃。
南東方面。
ソロモン海域。
第五艦隊。
訓練航行を続けていた新造艦隊群は、広大な海を警戒していた。
空母二隻。
戦艦二隻。
巡洋艦群。
駆逐艦群。
まだ実戦経験は少ない。
だが、その役目は重大だった。
真珠湾を攻撃していない以上、米太平洋艦隊主力は健在。
いつ動いてもおかしくない。
「第五艦隊より入電待機」
通信士が呟く。
その時だった。
無線室の空気が変わる。
「……長距離電波受信」
通信兵が顔を上げる。
「ハワイ方面……?」
艦橋へ緊張が走る。
南海の戦いは、まだ終わっていなかった。




