第三話
一九四一年十二月十日。
南シナ海。
第三艦隊は、マニラ湾外海から西南西へ進路を変えていた。
昨夜届いた“巡洋艦級複数”という報告。
その正体は未だ不明。
しかし、有馬は確信していた。
英国東洋艦隊は、必ず動いている。
問題は――どこにいるかだった。
「索敵線をさらに南方へ延長します」
黒瀬参謀長が海図へ新たな線を引く。
「燃料消費は増えますが」
「構わん」
有馬は即答した。
「敵を見失う方が危険だ」
艦橋内には、常に低い緊張が漂っていた。
誰もが理解している。
もし東洋艦隊がこちらの輸送船団へ突入すれば、南方作戦全体が揺らぐ。
上陸部隊。
輸送船。
補給線。
それらを守るために、第三艦隊は存在していた。
◇
午前六時。
空母《翔鶴》。
飛行甲板では、双発艦上偵察機《景雲》が発艦準備を進めていた。
「索敵第五線、発艦用意!」
整備員たちが最後の確認を行う。
燃料。
無線。
カメラ。
予備酸素。
長距離飛行のため、機内には最低限の食料まで積み込まれていた。
搭乗員は三名。
操縦員。
観測員。
通信員。
彼らは既に三日連続で索敵飛行を続けていた。
「今日こそ見つかると思うか?」
若い整備兵が呟く。
景雲搭乗員の観測士・神崎少尉は苦笑した。
「見つからない方が怖い」
その一言に、誰も返事ができなかった。
発艦灯が振られる。
双発機は唸りを上げ、朝焼けの海へ飛び立っていく。
◇
同時刻。
マニラ北方。
日本陸軍は首都攻略を進めていた。
第三機動部隊所属の艦爆隊は、陸軍航空隊と連携しながら飛行場攻撃を続けている。
「敵機離陸確認!」
上空援護の艦戦隊が急旋回する。
敵はP-40。
数は少ない。
だが低空から鋭く突っ込んでくる。
「左上方!」
二〇ミリ機銃が火を噴く。
長砲身化された新型機銃は高初速。
命中した敵機の右翼が吹き飛ぶ。
しかし、空戦は一瞬だった。
敵は既に数を失っている。
艦爆隊はそのまま飛行場へ侵入。
五〇〇キロ爆弾を投下。
爆炎が滑走路を包み込んだ。
「命中確認!」
無線が飛び交う。
日本海軍航空隊は、従来よりはるかに無線使用を重視していた。
索敵。
誘導。
攻撃修正。
情報共有。
それら全てが航空戦を変えつつあった。
◇
午前十時四十分。
南シナ海西部。
高度七〇〇〇メートル。
景雲索敵第五線。
神崎少尉は双眼鏡を覗き込んでいた。
厚い雲の切れ間。
その向こう。
「……煙?」
水平線近くに、細い黒線。
神崎は即座に身を乗り出した。
「右十五度!」
機体が緩やかに旋回する。
やがて見えた。
艦影。
一隻。
二隻。
さらに後方。
「艦隊だ……!」
観測員が息を呑む。
巡洋艦。
駆逐艦。
そして。
「戦艦……?」
巨大な艦影。
二本煙突。
低い艦橋。
英海軍特有のシルエット。
神崎は叫んだ。
「通信!」
通信員が即座に送信を始める。
『敵艦隊発見! 位置――』
だが、その瞬間。
「敵戦闘機!」
雲間から飛び出した複葉機が突っ込んでくる。
英海軍艦載機。
フルマー。
「回避!」
景雲が急旋回。
機体が軋む。
後部旋回機銃が火を吹く。
曳光弾が空を裂く。
敵機も撃ってくる。
弾丸が右翼を叩いた。
「右エンジン被弾!」
「まだ動く!」
神崎は振り返った。
「送れたか!?」
「送信完了!」
その言葉に、神崎は歯を食いしばる。
「帰るぞ!」
景雲は雲へ飛び込んだ。
◇
第三艦隊旗艦《天城》。
「翔鶴景雲隊より緊急電!」
通信兵が叫ぶ。
「敵艦隊発見!」
艦橋の空気が凍る。
「位置を出せ!」
海図へ一気に人が集まる。
「距離およそ三百浬!」
「針路南東!」
「速度二十ノット以上!」
黒瀬参謀長が低く言う。
「東洋艦隊ですな」
有馬は黙って海図を見つめた。
敵は動いている。
しかもこちらの想定より東。
「狙いは輸送船団か」
「あるいはマニラ増援」
有馬は静かに命じた。
「第三機動部隊へ通報。第一、第二機動部隊にも敵位置を共有」
「はっ!」
「第五艦隊にも警戒強化を伝えろ」
通信兵たちが一斉に動き出す。
情報が艦隊を繋いでいく。
第一機動部隊。
第二機動部隊。
第三機動部隊。
第三艦隊。
そして第四機動部隊。
海に散った艦隊が、無線で一つになっていく。
◇
午後。
《翔鶴》艦橋。
「第三艦隊より敵艦隊情報更新」
参謀が海図へ新しい位置を書き込む。
第三機動部隊司令官は目を細めた。
「……思ったより早いな」
「敵はかなり強行軍のようです」
「こちらの上陸部隊を叩く気だろう」
司令官は静かに振り返る。
「艦攻隊準備」
「雷装ですか?」
「まだだ」
低い声。
「まずは見失うな」
その判断は慎重だった。
敵位置はまだ不完全。
夜。
悪天候。
さらに敵防空もある。
焦って攻撃隊を出せば、逆に損害を出しかねない。
「景雲隊を追加発進。夜間接触を維持させろ」
「はっ!」
艦橋の外では、赤く染まった空の下、新たな索敵機が準備を始めていた。
◇
夕暮れ。
第三艦隊。
有馬は海を見つめていた。
東洋艦隊。
ついに姿を現した。
だが、本当の問題はこれからだった。
敵を見つけること。
敵を見失わないこと。
どの艦隊が、どの距離で、どのタイミングで叩くか。
それが、この新しい海戦だった。
遠く西の空で、雷光が光る。
嵐が近づいていた。




