席替えの日 前編
転校してきてから、気が付けば一か月ほどが経っていた。
初めてこの学校に来た日のことは、今でも覚えている。
知らない校舎。
知らない教室。
知らない先生に、知らないクラスメイト。
周りの子たちは当たり前のように友達と話し、休み時間になれば一緒に遊び、授業が始まれば何事もなかったかのように自分の席へ戻っていく。
その中に、俺だけがぽつんと置いていかれたような気がしていた。
話しかけられれば返事はできる。
先生に何かを聞かれれば答えられる。
休み時間に誘われれば、一緒に遊ぶことだってできる。
それでも、どこか遠慮してしまう。
自分から話しかけていいのか。
この輪の中に入ってもいいのか。
今の返事は変じゃなかっただろうか。
そんなことを、いちいち考えていた。
けれど、一か月という時間は、思っていた以上に長かったらしい。
毎朝、同じ道を通って学校へ行く。
同じ靴箱で上履きに履き替える。
同じ階段を上り、同じ教室の扉を開ける。
それを繰り返しているうちに、少しずつ緊張しなくなっていた。
顔を覚えたクラスメイトが増えた。
向こうから話しかけてくれることも増えた。
休み時間には、何をして遊ぶかを自然に考えるようになった。
そして、何よりも大きかったのは、京極蓮という友達ができたことだった。
蓮は、初めて話したときからあまり変わらない。
とにかくよく喋る。
思いついたことをすぐ口にする。
ふざけるのが好きで、こちらが真面目に答えても、平気で話を脱線させる。
たまに、何を考えているのか分からないこともある。
でも、一緒にいると不思議と気が楽だった。
俺が黙っていても、蓮は勝手に話し続けてくれる。
返事に困っていても、次の話題を持ってきてくれる。
俺が少しずつ話せるようになると、それを特別なことのように扱わず、いつもどおり接してくれる。
その距離感が、ありがたかった。
そんなある日の朝。
いつものように教室へ入ると、蓮がすぐにこちらを見つけた。
『おはよう!』
「おはよう。」
『昨日、ゲームした?』
「したよ。」
『何時まで?』
「九時くらい。」
『早っ!』
「普通だろ。」
『俺なんか十時までやってたよ。』
「怒られないの?」
『ちょっとだけ。』
「怒られてるじゃん。」
『いや、ちょっとだから。』
「怒られたことに変わりないだろ。」
『細かいなあ。』
蓮は不満そうな顔をしたあと、自分でおかしくなったのか笑い始めた。
俺もつられて笑った。
本当に、いつもの会話だった。
昨日何をしたのか。
何時まで起きていたのか。
ゲームがどうだったのか。
大人からすれば、わざわざ話すほどでもない内容かもしれない。
でも、小学生の俺たちにとっては、それだけで十分だった。
昨日のことを話して、今日のことを話して、明日もまた同じように話す。
そんな毎日が、少しずつ当たり前になっていた。
俺がランドセルを机の横に掛けていると、蓮がふと思い出したように言った。
『そういえば、今日って何かあるんだっけ?』
「何が?」
『先生が昨日、何か言ってなかった?』
「宿題のことじゃない?」
『あ、それは聞いた。』
「じゃあ何もないんじゃない?」
『うーん……。』
蓮は腕を組み、しばらく考え込んだ。
しかし、すぐにどうでもよくなったらしい。
『まあ、いいや。』
「自分から聞いておいて?」
『思い出せないものは仕方ない。』
「それ、絶対忘れてるだけだろ。」
『龍斗、最近そういうこと言うようになったよね。』
「蓮が変なことばっかり言うから。」
『俺のせい?』
「そう。」
『ひどいなあ。』
口ではそう言いながら、蓮は楽しそうだった。
俺も笑いながら、自分の席に座った。
窓から朝の光が差し込み、教室の中を明るく照らしている。
周りでは、すでに何人かのクラスメイトが集まって話をしていた。
『昨日さ、家でこんなことがあってさ!』
『本当に?』
『うん、めっちゃ面白かった!』
そんな声が、教室のあちこちから聞こえてくる。
一か月前なら、俺はその様子を眺めながら、どうやって一日を過ごそうかと考えていたかもしれない。
今は違った。
蓮が隣にいる。
話しかけてくれる友達がいる。
休み時間に一緒に遊ぶ相手もいる。
教室に入ったとき、誰かがいることを嬉しいと思えるようになっていた。
そんなことを考えていると、教室の扉が開いた。
先生が入ってきたのだ。
『みんな、おはよう。』
『おはようございます!』
教室中から元気な声が返ってくる。
先生は出席簿を机の上に置き、教室を見渡した。
『はい、みんな席に着いてね。』
まだ話し足りないのか、あちこちから小さな声が聞こえていた。
先生はそれを見て、少しだけ笑った。
『今日は、みんなにお知らせがあります。』
その一言で、教室の空気が少し変わった。
お知らせ。
そう言われると、何となく気になる。
宿題が増えるのだろうか。
何かの行事があるのだろうか。
それとも、いつもと違う授業をするのだろうか。
蓮も前を向き、先生の話を聞く姿勢になった。
先生は黒板の前へ移動すると、チョークを手に取った。
そして、大きく文字を書いた。
『席替え』
一瞬、教室が静かになった。
書かれた二文字を、みんなが見つめる。
次の瞬間。
『やったー!』
『本当に?』
『誰の隣になるんだろう!』
『一番後ろがいい!』
教室中が、一気に騒がしくなった。
さっきまで静かに座っていた子たちまで、身を乗り出して話し始める。
『先生、今日やるの?』
『窓側がいい!』
『今の席、前すぎるんだよ!』
『私は後ろがいいな!』
あちこちから声が飛び交った。
俺も、思わず黒板を見つめた。
席替え。
転校してきてから、初めての席替えだった。
今までの席にも、ようやく慣れてきたところだった。
机の位置も、前後左右に誰が座っているのかも、少しずつ覚えてきた。
それなのに、今日からまた変わるらしい。
不思議な感じがした。
少し寂しいような気もする。
でも、それ以上に、次はどんな席になるのだろうという期待があった。
今より後ろの席になれるだろうか。
窓の近くになれるだろうか。
話しやすい友達の隣になれるだろうか。
そんなことを考えていると、隣から小さな声が聞こえた。
『龍斗。』
「ん?」
蓮だった。
『隣になれるかな。』
「誰と?」
『俺と。』
「席替えなんだから、分からないだろ。」
『分からないけど、なれたらいいじゃん。』
「まあ、そうだね。」
蓮は少しだけ身を乗り出し、俺の机の上に手を置いた。
『もし隣になれたら、毎日話せるよ。』
「今でも話してるじゃん。」
『今よりもっと話せる。』
「授業中に話したら怒られるだろ。」
『休み時間に。』
「それなら今と変わらないじゃん。」
『確かに。』
蓮はあっさり納得した。
「何なんだよ。」
『いや、隣になれたら嬉しいなと思って。』
そう言って、蓮は笑った。
俺も笑った。
俺だって、蓮が隣だったら楽しいと思う。
けれど、席替えはくじで決まるらしい。
どれだけ願っても、思いどおりになるとは限らない。
それに、せっかく席が変わるのだから、今まであまり話していなかった子の近くになるのも悪くないかもしれない。
そんなことを考えていると、先生が手を叩いた。
『はい、みんな静かに。』
それでも、教室のざわめきはなかなか収まらなかった。
先生は困ったように笑いながら、もう一度手を叩いた。
『まだ席を決めるところだからね。そんなに慌てなくても大丈夫。』
『先生、くじ?』
『そう。今日はくじで決めます。』
その言葉を聞いて、また歓声が上がった。
『やった!』
『くじなら公平だ!』
『一番前だけは嫌だなあ。』
『窓側がいい!』
みんな、それぞれに希望があるらしい。
前の席が嫌だという子もいれば、後ろがいいという子もいる。
窓側がいいという子もいれば、友達の近くになりたいという子もいる。
同じ席替えでも、考えていることは人によって違う。
俺はといえば、何となく落ち着かない気持ちになっていた。
新しい席になること自体も気になる。
でも、それ以上に、誰の隣になるのかが気になった。
この一か月で、少しずつ話せる相手が増えた。
その中には、もっと仲良くなりたいと思う子もいた。
ただ、誰とでもすぐに話せるほど、俺は器用ではない。
相手から話しかけてくれれば話せる。
一緒に遊んでいれば自然と会話もできる。
けれど、何もきっかけがない状態で自分から話しかけるのは、まだ少し苦手だった。
もし、隣の席になったら。
毎日、顔を合わせることになる。
授業の準備をしたり、プリントを回したり、分からない問題を聞いたり。
そんな何気ないことが、話すきっかけになるかもしれない。
そう考えると、席替えというのは、ただ机の場所を変えるだけではないのかもしれなかった。
先生が、教卓の上から小さな箱を取り出した。
『それでは、今から一人ずつくじを引いてもらいます。引いた紙には番号が書いてあります。その番号が、みんなの新しい席になります。』
先生は黒板に、座席表を書き始めた。
教室の形に合わせて、机の並びが描かれていく。
前から何列目なのか。
窓側から何番目なのか。
教室の後ろはどこなのか。
それが分かるように、席ごとに番号が振られていった。
『自分の番号がどこなのか、よく確認してね。』
先生の説明を聞きながら、俺も黒板を見た。
番号は順番に並んでいるようだったが、実際に自分がどの席になるのかは、くじを引いてみないと分からない。
『それじゃあ、出席番号順に引いていきます。』
最初の子が立ち上がった。
箱の前まで歩いていき、中に手を入れる。
紙を一枚取り出し、開いた。
『十二番です!』
『十二番ね。黒板のここだよ。』
先生が座席表を指差す。
『そこかあ!』
その子は嬉しそうに笑い、自分の番号を確かめていた。
次の子も前へ出て、くじを引く。
『三番!』
『私は十七番!』
『えー、そこなの?』
引いた番号によって、反応はさまざまだった。
希望の席だったのか、嬉しそうにする子。
思っていた場所と違ったのか、残念そうな顔をする子。
どこでもいいのか、あまり気にしていない子。
見ているだけでも面白かった。
教室の中では、くじを引くたびに小さな歓声が上がる。
俺も、自分の番が近付くにつれて、少しずつ緊張してきた。
隣の蓮は、さっきから何度も黒板を見ている。
『あそこがいいなあ。』
「どこ?」
『後ろの方。』
「さっきからそればっかりだな。」
『だって、後ろって何かよくない?』
「何が?」
『何となく。』
「理由になってないじゃん。」
『何となくでいいんだよ。』
蓮は自信満々に言った。
俺は笑いながら、前へ視線を戻した。
くじを引く順番が進んでいく。
一人、また一人と番号が決まっていくたびに、黒板の座席表が埋まっていった。
まだ空いている席は多い。
その中に、自分が座る場所もある。
そう思うと、何だか不思議だった。
これから自分が座る場所が、たった一枚の紙で決まる。
そして、その席の隣に誰が座るのかも、同じように決まっていく。
運次第。
本当に、それだけだった。
やがて、俺の番が来た。
『次、不動くん。』
「はい。」
返事をして立ち上がる。
椅子を机の中へ押し込み、教卓の前へ向かった。
先生が持っている箱の中には、まだ何枚もの紙が入っていた。
俺は少しだけ迷ってから、箱の中へ手を入れた。
指先に、折り畳まれた紙が触れる。
一枚をつまみ、取り出す。
それを握ったまま、自分の席へ戻った。
周りの子たちは、もう自分の番号を確認していた。
俺も紙を開く。
そこには、数字が一つだけ書かれていた。
『14』
十四番。
それが俺の新しい席だった。
「十四番か。」
小さく呟く。
どこだろう。
黒板を見れば分かるはずだが、今はまだほかの子たちが前に集まっていて、座席表がよく見えなかった。
隣から、蓮が顔を近付けてくる。
『龍斗、何番だった?』
「十四番。」
『十四番? 俺は八番。』
「じゃあ、離れてるかもな。」
『えー、まじかあ。』
蓮は分かりやすく肩を落とした。
『せっかく隣になれると思ったのに。』
「まだ決まったわけじゃないけど。」
『番号が違うんだから、もう決まってるようなものじゃん。』
「まあ、そうだけど。」
『残念。』
本当に残念そうだったので、俺は少し笑ってしまった。
蓮が隣だったら、それはそれで楽しかったと思う。
けれど、十四番がどこなのか、まだ分からない。
今の席から近いのか、遠いのか。
窓側なのか、廊下側なのか。
そして、隣には誰が座るのか。
気になることは、まだたくさんあった。
くじ引きが終わると、先生は黒板の前に立った。
『それでは、全員の番号が決まりました。今から座席表を確認します。』
教室の中が、再びざわついた。
みんな、黒板を見ようとして前へ集まり始める。
『どこだ?』
『ちょっと見せて!』
『押さないでよ!』
『自分の番号、どこにある?』
背の高い子の後ろでは、黒板が見えないらしい。
俺も席を立ち、ゆっくり前へ向かった。
人の隙間から黒板を覗き込む。
座席表には、十四番の数字が書かれていた。
窓側から二列目。
教室の真ん中より、少し後ろの位置だった。
「ここか。」
思っていたよりも、悪くない席だった。
前すぎるわけでもない。
一番後ろというわけでもない。
窓からも、それほど遠くない。
そして、俺は十四番の隣に書かれた名前を見た。
『15 葛西菜花』
「……あ。」
思わず声が漏れた。
葛西さん。
その名前を見た瞬間、何とも言えない気持ちになった。
驚いた。
嬉しかった。
少しだけ、緊張した。
いろいろな感情が、一度にやってきたような感じだった。
葛西さんとは、転校してきてから何度か話したことがある。
特別、たくさん話しているわけではない。
けれど、話しかければ優しく返してくれるし、みんなと一緒に遊ぶときも自然に接してくれる。
俺にとっては、まだ少しだけ意識してしまう相手だった。
その葛西さんが、隣の席になる。
明日からではない。
今日からだ。
授業中も、休み時間も、すぐ隣にいることになる。
俺はもう一度、黒板の名前を確認した。
十四番。
葛西菜花。
間違いない。
「……本当に隣なんだ。」
小さく呟いた、そのときだった。
『龍斗!』
後ろから蓮の声がした。
振り返ると、蓮が人の間からこちらを覗いていた。
『どこだった?』
「ここ。」
俺は黒板の十四番を指差した。
蓮は自分の番号と見比べたあと、少しだけ首を傾げた。
『あー、そこか。』
「うん。」
『……って、ちょっと待って。』
蓮は、十四番の隣を見た。
そして、そこに書かれている名前を確認した瞬間、大きな声を出した。
『えー! 龍斗、ずるいじゃん!』
「何が?」
『葛西さんの隣じゃん!』
その声が、思った以上に教室中へ響いた。
近くにいた何人かが、こちらを振り返る。
俺は慌てて蓮を見た。
「ちょっと、声大きいって。」
『だって、ずるいじゃん!』
「くじなんだから仕方ないだろ。」
『俺なんか一番前だよ!』
蓮は自分の番号を指差した。
そこは、先生の机に近い席だった。
『先生の目の前だよ。』
「ちゃんと授業を受けられるじゃん。」
『それが嫌なんだって!』
「何でだよ。」
『何でもだよ!』
蓮は大げさに肩を落とした。
その様子があまりにも分かりやすくて、俺は思わず笑ってしまった。
『そんなに笑う?』
「いや、おかしいだろ。」
『俺は真剣なんだけど。』
「どこがだよ。」
『全部!』
蓮が胸を張った瞬間、先生の声が飛んできた。
『蓮くん。』
『はい!』
蓮はすぐに背筋を伸ばした。
『席替えが終わったばかりだけど、もう少し静かにしてね。』
『……はい。』
その返事があまりにも素直だったので、近くにいた子たちがくすくす笑った。
蓮は気まずそうに頭を掻きながら、俺の方を見た。
「ほらな。」
小声でそう言うと、蓮はすぐに反応した。
『龍斗のせいだよ。』
「何でだよ。」
『龍斗が葛西さんの隣だから。』
「意味が分からない。」
『俺が一番前になったのも、龍斗のせい。』
「そんなわけないだろ。」
『そういうことにしておこう。』
「勝手に決めるなよ。」
二人で小さく笑った。
席替えというだけで、こんなに騒がしくなる。
でも、教室の中にいるみんなが楽しそうだった。
誰もが、新しい席に期待している。
仲のいい友達の近くになれた子。
希望していた場所になった子。
思っていた席とは違って、少し残念そうな子。
それぞれに反応は違うけれど、みんな同じように、新しい一日を迎えようとしていた。
俺も、その一人だった。
先生が手を叩いた。
『はい、じゃあ新しい席に移動してください。机を動かすときは、周りの子に気を付けてね。』
その声を合図に、教室中が一斉に動き始めた。
机を引く音。
椅子を動かす音。
友達を呼ぶ声。
『こっちだ!』
『机、そっちじゃないよ!』
『ちょっと通して!』
教室の中が、普段の休み時間以上に騒がしくなった。
俺も自分の机を持ち上げた。
思ったより重い。
机の脚が床に引っ掛からないように気を付けながら、新しい席まで運んでいく。
窓側から二列目。
黒板で確認した場所を探し、机を置いた。
「よいしょ……。」
椅子を引いて座ってみる。
さっきまでの席と、景色が違う。
見える角度が変わっただけなのに、教室が少し新鮮に感じられた。
黒板までの距離。
前に座っている子の後ろ姿。
窓から差し込む光。
何もかもが、ほんの少しだけ違っている。
そして、隣の席にも人がやってきた。
葛西さんだった。
机を置く場所を確認しながら、俺の方を向く。
『よろしくね。』
優しく笑って、小さく頭を下げた。
俺は一瞬、返事をするのが遅れた。
「あ、うん。よろしく。」
それから、俺も軽く頭を下げた。
たったそれだけのやり取りだった。
特別な会話でもない。
何か大きな出来事があったわけでもない。
ただ、隣になったから挨拶をした。
それだけだ。
それなのに、少しだけ胸の奥が落ち着かなかった。
俺は机の位置を直すふりをしながら、視線を前に戻した。
葛西さんも自分の机を整えている。
その横顔を見て、すぐに目を逸らした。
何を考えているのか、自分でもよく分からなかった。
嬉しいのは確かだ。
でも、どうしてこんなに緊張するのだろう。
今までだって、同じ教室にいた。
休み時間に話すこともあった。
一緒に遊んだことだってある。
それなのに、隣の席になっただけで、何だか違う。
これから毎日、すぐ隣に座る。
授業中に何度も顔を合わせることになる。
プリントを回すこともあるだろう。
分からない問題を聞かれることもあるかもしれない。
そんな当たり前のことを想像するだけで、少しだけそわそわした。
『龍斗ー!』
遠くから蓮の声がした。
振り向くと、蓮は一番前の席に座り、こちらを見ていた。
『聞こえる?』
「聞こえるよ。」
『遠いなあ。』
「教室の中だろ。」
『前と後ろじゃ、すごく遠く感じる。』
「大げさだな。」
『いや、本当に。』
蓮は真面目な顔をして言った。
しかし、その直後にはにやりと笑った。
『でも、先生に近いから、寝てたらすぐバレる。』
「寝るつもりなのかよ。」
『寝ないよ!』
「今、寝るって言っただろ。」
『言ってない!』
「言ったじゃん。」
『聞き間違いだよ。』
「絶対違う。」
俺がそう言うと、蓮は大げさに頭を抱えた。
『龍斗、最近本当に厳しくなったなあ。』
「蓮が変なことを言うからだよ。」
『はいはい。』
蓮は笑いながら前を向いた。
そのやり取りを聞いていた葛西さんが、小さく笑った。
『二人って、本当に仲がいいね。』
「あいつが勝手に話しかけてくるんだよ。」
『えー、そうなの?』
『そうだよ。俺が龍斗を育ててるんだから。』
前の席から蓮が口を挟んできた。
「育てられてない。」
『じゃあ、面倒を見てる。』
「それも違う。」
『友達じゃん。』
蓮は、当たり前のことを言うように笑った。
『友達なんだから、いいじゃん。』
俺は一瞬、言葉に詰まった。
友達。
その言葉を、何度も聞いてきたはずなのに。
転校してきたばかりの頃は、自分がこの教室で誰かの友達になれるのか、よく分からなかった。
話しかけてもらえることはあっても、それが本当に仲良くなったということなのか、自信がなかった。
でも、蓮はそんなことを気にしていない。
友達だから話す。
友達だから一緒に遊ぶ。
友達だから、くだらないことで笑い合う。
それだけだった。
「……まあ、そうだね。」
俺がそう答えると、蓮は満足そうに頷いた。
『でしょ。』
「何でそんなに偉そうなんだよ。」
『友達だから。』
「理由になってないって。」
また、三人で笑った。
新しい席に移動しただけなのに、教室の中には、さっきまでとは少し違う空気が流れていた。
席が変われば、見える景色が変わる。
隣にいる人が変われば、話す機会も変わる。
そして、何気ない会話が増えていけば、今まで気付かなかった相手の一面を知ることもある。
この席替えが、これからどんな毎日につながっていくのか。
そのときの俺には、まだ分からなかった。
ただ、隣に葛西さんがいることが、少し嬉しかった。
そして、前の方では蓮が、先生に何かを注意されていた。
『蓮くん、今はまだおしゃべりの時間じゃないよ。』
『すみません!』
「ほらな。」
思わず小さく呟くと、蓮がこちらを振り返った。
『今のは龍斗のせいじゃないからね!』
「何も言ってないだろ。」
『顔に書いてある!』
「どんな顔だよ。」
『そういう顔!』
先生がもう一度こちらを見る。
『二人とも、そろそろ始めるよ。』
『はい!』
俺たちは慌てて前を向いた。
葛西さんも、口元を押さえながら笑っていた。
新しい席での一日が、こうして始まった。




