席替えの日 後編
午前中の授業が始まってから、あっという間に時間が過ぎていった。
席替えをしたばかりだからといって、授業の内容が変わるわけではない。先生の話を聞いて、ノートを取り、問題を解く。分からないところがあれば教科書を見直す。
やることは、いつもと同じだった。
ただ、隣の席に葛西さんがいるというのは、今までとは少し違っていた。
先生が黒板に問題を書いているときだった。
隣から、筆箱の中を探るような音が聞こえた。
『あれ……』
葛西さんが、小さく声を漏らした。
俺はノートから顔を上げ、そっと隣を見た。
「どうしたの?」
『消しゴムがないんだよね』
葛西さんは筆箱の中をもう一度確認したあと、机の中ものぞいていた。
「忘れたの?」
『たぶん、前の席の机の中に入れたままにしてきちゃったみたい』
「そっか」
俺は自分の筆箱を開けた。
消しゴムは一つしかなかったけれど、まだ十分に使える。少し考えてから、それを取り出して葛西さんに差し出した。
「これ、使う?」
『いいの?』
「うん。俺、鉛筆で書いたところは手で消すから」
『それはやめたほうがいいと思うけど……』
「冗談だよ」
俺が笑うと、葛西さんも小さく笑った。
『ありがとう。授業が終わったら返すね』
「急がなくていいよ」
葛西さんは消しゴムを受け取ると、すぐにノートへ視線を戻した。
それだけのことだった。
消しゴムを貸しただけ。
ほんの数秒のやり取り。
けれど、席替えをする前なら、こういうことも少し違っていたかもしれない。
離れた席にいたら、わざわざ声をかける必要がある。近くにいなければ、気づかないまま終わっていた可能性だってある。
今は、顔を少し向けるだけで話ができる。
そんな当たり前のことが、妙に新鮮だった。
俺はノートに目を戻し、先生の説明を聞いた。
しばらくして、先生が黒板に書いた問題を指した。
『では、この問題を解いてみましょう。できた人は、隣の人と答えを確認してもいいですよ』
俺はノートに式を書き、順番に計算していった。
途中で一度だけ計算を間違えたけれど、すぐに気づいて書き直す。最後に答えを確認すると、どうやら合っているようだった。
隣では、葛西さんもノートを見直していた。
少しすると、こちらへ顔を向けた。
『不動くん、これって答え、こうなる?』
そう言いながら、ノートを少しだけこちらに向ける。
俺は自分の答えと見比べた。
「うん、合ってると思うよ」
『よかった。途中で計算が分からなくなりそうだったんだ』
「俺もたまにあるよ。普通に間違えるし」
『不動くんも?』
「あるよ。そんなに何でもできるわけじゃないから」
『なんか、ちゃんとできてるイメージだった』
「いやいや、そんなことないって」
慌てて否定すると、葛西さんは楽しそうに笑った。
『そっか』
そのあと、俺たちはそれぞれノートに目を戻した。
先生の説明が始まると、教室は静かになった。
鉛筆がノートを走る音や、教科書のページをめくる音が聞こえてくる。
少し離れた前の席では、蓮が先生の話を聞きながら、何かをノートに書き込んでいた。
珍しく真面目に授業を受けているように見える。
けれど、しばらくすると、蓮がちらっとこちらを振り返った。
目が合う。
蓮は口元だけを動かして、何かを言おうとしていた。
声は聞こえなかったけれど、ふざけようとしているのは分かった。
俺は目だけで「前を向け」と合図した。
すると蓮は、にやっと笑って前を向いた。
本当に、あいつは何をしているんだろう。
そう思いながら、俺は笑いそうになるのをこらえた。
隣の葛西さんも、蓮の様子に気づいたらしい。
『蓮くん、何してるんだろうね』
「さあ。いつものことだと思う」
『仲いいんだね』
「まあ、そうだね」
そう答えると、葛西さんは前を向いた。
俺も黒板へ視線を戻す。
席替えをしたからといって、急に何かが大きく変わるわけではない。
それでも、隣の席の人と話したり、前の席の蓮と目が合ったりするだけで、いつもの授業が少し違って感じられた。
やがて、午前中最後の授業が終わった。
先生が教科書を閉じる。
『それでは、ここまでにしましょう。次は給食の準備ですよ』
その言葉が聞こえた途端、教室のあちこちから声が上がった。
『今日の給食、何だったっけ?』
『献立表に書いてあったでしょ』
『見てないから聞いてるんだって!』
『ハンバーグだよ!』
『本当に!?』
そんな会話が飛び交う中、蓮が勢いよくこちらを振り向いた。
『龍斗! 今日、ハンバーグだって!』
「さっき聞こえたよ」
『デザートもあるらしいよ!』
「それも聞こえた」
『今日は当たりの日だな!』
「毎日それくらい楽しそうだったらいいのに」
『給食は大事だからね』
「何が大事なの?」
『人生の楽しみ』
「大げさだなあ」
蓮は真剣な顔で頷いた。
『いや、本当に』
その顔がおかしくて、俺は思わず笑ってしまった。
転校してきたばかりの頃は、休み時間に誰かと話すだけでも少し緊張していた。
自分から話しかけるタイミングが分からず、周りの会話を聞いているだけで終わることもあった。
でも、今は違う。
蓮がくだらないことを言えば、自然に言い返せる。
誰かが笑っていれば、俺も一緒になって笑える。
それが特別なことだとは思っていなかった。
ただ、学校にいる時間が前よりもずっと楽しくなっていた。
『それでは、給食の準備をしましょう』
先生の声で、みんなが動き始めた。
机を動かす音が響き、給食当番の子たちが白衣を着始める。
俺も自分の机を動かし、給食を食べる準備をした。
席替えをしてから、まだそれほど時間は経っていない。
机の並びは新しくなったけれど、給食の準備の仕方はいつもと同じだった。
自分の机を動かし、隣の机とくっつける。
誰かが机の脚を引っ掛けて音を立てると、別の誰かが笑う。
『ちょっと、そこ通れない!』
『ごめんごめん!』
『謝る前に机を動かして!』
そんな声があちこちから聞こえてくる。
俺も机を動かしていると、隣にいた葛西さんが声をかけてきた。
『不動くん、そっち、もう少し寄せられる?』
「これくらい?」
『うん、それで大丈夫。ありがとう』
「どういたしまして」
ほんの短いやり取りだった。
それでも、席替えをする前より、葛西さんと話す機会は少し増えた気がする。
もちろん、ずっと話しているわけではない。
授業中はそれぞれノートを取るし、休み時間には蓮やほかの友達と遊ぶことも多い。
それでも、隣に座っているからこそ生まれる会話があった。
消しゴムを貸したり、プリントを渡したり、机を動かすときに声をかけたり。
そんな小さなことの積み重ねだった。
やがて、給食当番の子たちがワゴンを押して教室へ戻ってきた。
食器がぶつかる音と一緒に、料理の匂いが広がる。
『うわ、いい匂い!』
蓮が身を乗り出した。
「まだ配られてないよ」
『匂いだけで分かる。これはうまい』
「食べる前から決めないでよ」
『ハンバーグに外れはない!』
「絶対とは限らないでしょ」
『いや、ある!』
「どっちなの?」
俺たちの会話を聞いていた葛西さんが、くすっと笑った。
『二人って、いつもそんな感じなの?』
『そうだよ!』
蓮が胸を張る。
「いや、蓮が勝手に騒いでるだけ」
『ひどいな!』
『ふふっ』
葛西さんは楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、俺までつられて笑ってしまう。
給食が配り終わると、先生が前に立った。
『それでは、みんな手を合わせてください』
教室中の声が重なる。
『いただきます!』
みんなが一斉に食べ始めた。
蓮は待ちきれなかったと言わんばかりに、ハンバーグへ手を伸ばした。
『うまい!』
「早すぎるでしょ」
『おいしいものは早く食べたいからね』
「ゆっくり食べなよ」
『分かってるって』
そう言いながら、蓮はまた一口食べた。
「全然分かってないじゃん」
『うるさいなあ』
二人で笑い合う。
給食の時間には、ほかにもいろいろな会話が飛び交っていた。
好きなおかずの話。
昨日見たテレビの話。
放課後に何をして遊ぶかという話。
誰かが苦手なおかずを残そうとして、友達にからかわれている。
別のところでは、デザートをいつ食べるかで盛り上がっていた。
蓮はハンバーグを食べ終えると、今度はパンに手を伸ばした。
『これ、パンにハンバーグを挟んだら絶対うまいよね』
「最初からそうやって食べたらよかったんじゃない?」
『いや、まずは普通に食べるでしょ』
「こだわりがあるんだね」
『当然』
「何のこだわりなの?」
蓮はパンをちぎりながら、得意げな顔をした。
その様子を見て、また笑ってしまう。
葛西さんも、ときどきこちらの会話に入ってきた。
『私もパンに挟んで食べることあるよ』
『ほらね!』
蓮がすぐに反応する。
「いや、葛西さんがやってるからって、蓮が正しいことにはならないでしょ」
『何で? 同じ意見の人がいるんだから、正しいじゃん!』
『そんな大げさなことじゃないよ』
葛西さんが笑いながら言った。
俺も笑った。
こういう何でもない会話が、給食の時間を楽しくしてくれる。
食べ終わったあとは、食器を片づけたり、牛乳の容器をまとめたりした。
最後にデザートを食べ終えた蓮が、満足そうに息をついた。
『あー、おいしかった』
「まだ一日終わってないよ」
『分かってるって』
「午後の授業があるからね」
『そこは考えたくないなあ』
「現実逃避しないでよ」
『龍斗、厳しいなあ』
「普通でしょ」
そんなやり取りをしながら、俺たちは机を元の位置へ戻した。
給食の時間が終わると、先生から掃除の指示が出た。
『それでは、掃除を始めましょう。担当の場所に移動してください』
教室の中で、みんなが一斉に動き始めた。
俺たちの掃除場所は教室だった。
机を端に寄せる人、ほうきを持つ人、黒板を消す人。それぞれが自分の担当を確認して、掃除を始める。
俺はほうきを手に取った。
床には、消しゴムのかすや小さなごみが落ちている。
普段はあまり気にしないけれど、こうして掃除をすると、意外といろいろなものが落ちていることに気づく。
「こっちから掃いていけばいい?」
俺が聞くと、ちり取りを持った葛西さんが頷いた。
『うん。私が集めるね』
「分かった」
俺がほうきでごみを集め、葛西さんがちり取りで受け止める。
ほうきを動かすたびに、細かいごみが床の端へ寄っていった。
ところが、うまく集めたつもりでも、ちり取りの前にごみが少し残ってしまう。
「うわ、また残った」
『あ、本当だ。もうちょっとこっちから掃いてみて』
「こう?」
『そうそう』
もう一度ほうきを動かすと、今度はきれいにちり取りへ入った。
「お、入った」
『よかった』
葛西さんが笑った。
掃除は、特別楽しいものではない。
できれば早く終わってほしいと思うし、ほうきを動かしていると、早く遊びに行きたくなる。
それでも、こうして誰かと一緒にやっていると、思ったより時間が早く過ぎた。
教室の反対側では、蓮が机を運んでいた。
『ちょっと、これ重いって!』
近くにいた男子が笑う。
『いや、持ち方が悪いだけだよ!』
『じゃあ、ちゃんと持ちなよ』
『分かってるって!』
蓮は机を持ち直し、少し大げさに力を入れた。
その拍子に机の脚が床に当たり、大きな音がした。
ガタン!
『うわっ!』
『ちょっと! 静かに運びなさい!』
先生の声が飛んできた。
『すみません!』
蓮は慌てて謝った。
俺はほうきを動かしながら、思わず笑ってしまった。
『龍斗、笑わないでよ!』
「いや、何してるの?」
『机が思ったより重かったんだよ!』
「さっき、持ち方が悪いって言われてたじゃん」
『それとこれとは別!』
「どう違うの?」
蓮は何か言い返そうとしたけれど、先生がこちらを見ていることに気づくと、すぐに口を閉じた。
『……掃除します』
「最初からやりなよ」
俺が小さく言うと、蓮はじろりとこちらを見た。
それから、何事もなかったかのように机を運び始めた。
葛西さんは、そのやり取りを聞いて笑っていた。
『二人って、本当に仲がいいね』
「そうかな」
『うん。いつも楽しそう』
「蓮が勝手に騒いでるだけだけどね」
『またそれ言う!』
少し離れたところから、蓮が声を上げた。
「聞こえてたの?」
『聞こえるよ!』
また先生に注意されないかと、俺たちは一瞬だけ先生のほうを見た。
先生は黒板を拭いていた。
今度は何も言われなかった。
俺たちは顔を見合わせて、小さく笑った。
やがて、床のごみを集め終えた。
俺はほうきを壁際に立てかけ、黒板の近くへ移動した。
黒板消しを持った子が、黒板を上から下へと拭いている。
そのたびに、白い粉が少しずつ落ちていった。
黒板消しをきれいにするため、窓の近くでぱんぱんと叩く音も聞こえる。
俺は机を元の位置へ戻すのを手伝った。
『これ、こっちでいい?』
葛西さんが机を持ちながら聞いた。
「うん、そこだと思う」
『ありがとう』
机を並べ終えると、教室の中が少しずつ整っていった。
さっきまであちこちに動いていた机が、きれいに列を作っている。
席替えをしたばかりなので、机の位置を間違えないように気をつけなければならなかった。
『この机、ここで合ってる?』
近くの男子が聞いた。
「そこじゃないかな。さっきまでそこにあったと思うよ」
『いや、こっちじゃない?』
別の子が机を指さす。
みんなで確認しながら、机を少しずつ動かしていった。
最後に自分の机を元の場所へ戻したとき、俺は何となく周りを見渡した。
新しくなった席の並び。
その中で、俺の机は葛西さんの隣にある。
掃除のために一度動かした机を、もう一度並べ直しただけなのに、その位置を確認している自分に気づいた。
別に、特別な意味があるわけではない。
ただ、間違えないように確認しただけだ。
そう思いながら、俺は机の横に落ちていた小さなごみを拾った。
「先生、終わりました」
俺が声をかけると、先生は教室を見回した。
『はい、きれいになりましたね。みんな、ありがとう』
その言葉を聞くと、何となく達成感があった。
『やっと終わったー!』
蓮が大きく伸びをした。
「そんなに疲れたの?」
『疲れたよ! 机を運んだし!』
「さっき一回、大きな音を立てただけでしょ」
『あれが一番大変だったんだよ!』
「絶対違うでしょ」
蓮は反論しようとしたけれど、結局何も言わずに笑った。
俺も笑った。
掃除道具を片づけ終えると、先生が次の時間について話し始めた。
『道具を片づけたら、次の授業の準備をしてください』
ほうきやちり取りを元の場所へ戻し、机の上を整える。
掃除の時間が終わり、教室にはまたいつもの空気が戻ってきた。
席替えをしたばかりの机の並びも、少しずつ見慣れてきている。
授業が始まると、俺は教科書を開いた。
隣では葛西さんも準備を終え、ノートを机の上に置いていた。
『次、何の授業だっけ?』
「えっと……これだね」
俺が時間割を確認して答えると、葛西さんは教科書を開いた。
『ありがとう』
「うん」
それだけの会話をして、俺たちは前を向いた。
午後の授業は、午前中よりも少し長く感じることがある。
給食を食べて、掃除をして、少し体を動かしたあとだからかもしれない。
それでも、先生の話を聞いているうちに時間は過ぎていった。
ノートを書き、問題を解き、先生に指名された子が答える。
蓮はときどきこちらを振り返りそうになっていたけれど、今度は何とか我慢しているようだった。
その様子を見ていると、また笑いそうになった。
でも、先生に注意されるのは嫌だったので、俺はノートに目を落とした。
席替えをしてから、授業中のちょっとした出来事が前よりも増えた気がする。
葛西さんが教科書のページを探していたら、自分の教科書と同じところを開いているか確かめる。
先生の説明が分からなかったときには、隣の席で同じように考えている様子が目に入る。
そんなことが、少しずつ当たり前になっていった。
やがて、午後の授業も終わりに近づいた。
先生が最後の説明を終え、教科書を閉じる。
『では、今日はここまでにしましょう。次は帰りの会です』
その言葉を聞くと、教室のあちこちから小さな声が上がった。
『やっと終わった!』
『今日、宿題あるかな?』
『あるに決まってるでしょ』
『何で決まってるんだよ!』
そんな声を聞きながら、俺も教科書を片づけた。
蓮がこちらを振り返った。
『龍斗、今日の宿題、何だと思う?』
「先生が言うまで分からないでしょ」
『算数だけがいいなあ』
「国語もあるかもしれないよ」
『やめてくれー!』
「まだ決まってないって」
『だから、ないことを祈ってるんだよ』
「祈っても変わらないでしょ」
『そんなことない!』
蓮は妙に自信ありげだった。
俺は笑いながら、机の上を片づけた。
やがて先生が前に立ち、帰りの会が始まった。
明日の予定や連絡事項が伝えられ、宿題についても説明があった。
蓮は先生の話を聞きながら、机の上に出していた連絡帳に書き込んでいる。
さっきまで宿題がないことを祈っていたくせに、今は真面目に書いていた。
俺も先生の話を聞きながら、必要なことを連絡帳に書き込んだ。
席替えをした日だからといって、帰りの会まで特別なことが起こるわけではない。
先生の話を聞き、明日の準備を確認し、忘れ物がないようにする。
それが終われば、あとは帰るだけだった。
『それでは、今日の学校生活はこれで終わりです。忘れ物をしないように気をつけて帰ってください』
『さようなら!』
みんなで挨拶をすると、教室の中が一気に騒がしくなった。
椅子を引く音。
机の中から物を取り出す音。
友達と話す声。
俺は筆箱や連絡帳をランドセルに入れ、教科書が残っていないか確認した。
隣の葛西さんも、帰る準備をしていた。
『不動くん、今日の算数のところ、宿題でもう一回やるんだよね?』
「うん。先生、そう言ってたと思う」
『ありがとう。ちゃんと書いておかないと忘れそうだった』
「俺も忘れないようにしないと」
『不動くんも忘れるんだ?』
「そりゃ、忘れることもあるよ」
『そうなんだ』
葛西さんは笑いながら、連絡帳をランドセルにしまった。
俺もランドセルの中をもう一度確認した。
忘れ物はなさそうだった。
『じゃあ、また明日ね』
葛西さんがそう言った。
「うん。また明日」
俺は自然にそう答えていた。
葛西さんは小さく手を振ると、友達のところへ歩いていった。
その後ろ姿を少しだけ見送ってから、俺もランドセルを背負った。
すると、すぐ近くから声がした。
『龍斗ー! 早く行こうよ!』
「分かってるって」
蓮が教室の出口で待っていた。
俺が近づくと、蓮は何かを思い出したように自分のランドセルを開けた。
『あれ?』
「何?」
『何か入ってる』
「何が?」
蓮はランドセルの中を探り、手のひらに小さな石を乗せた。
『何だこれ』
「石じゃん」
『それは分かってるよ!』
「じゃあ、聞かないでよ」
『いや、何でランドセルに入ってるのかなと思って』
「知らないよ」
蓮は石をじっと見つめたあと、ランドセルのポケットに入れ直した。
『まあ、いいか』
「いいの?」
『別に邪魔じゃないし』
「何で入ってるか分からないのに?」
『そのうち思い出すよ』
「絶対忘れるやつじゃん」
蓮は笑いながらランドセルを閉じた。
『よし、帰ろう!』
「うん」
俺たちは教室を出た。
廊下には、ほかのクラスの子たちもいた。
友達と話しながら帰る子。
先生に何かを聞いている子。
忘れ物に気づいて教室へ戻る子。
いつもの下校時間だった。
階段を下り、昇降口へ向かう。
靴を履き替えて外へ出ると、午後の空気が頬に当たった。
学校の敷地を出て、いつもの道を歩き始める。
蓮は隣で、今日の授業の話をしていた。
『ねえ、今日の最後の問題、ちょっと難しくなかった?』
「どれ?」
『算数の最後のやつ』
「そんなに難しかったかな」
『いや、俺、途中で分からなくなったんだよ』
「ちゃんと先生の話を聞いてた?」
『聞いてたよ!』
「本当に?」
『本当だって!』
蓮は少しむきになった。
その反応がおかしくて、俺は笑った。
「まあ、分からなかったら明日聞けばいいじゃん」
『それもそうだね』
「うん」
『でも、できれば宿題をやるときに思い出したいな』
「忘れたら終わりだね」
『嫌なこと言わないでよ!』
また二人で笑った。
学校から少し歩くと、信号のある交差点に着いた。
俺たちは歩道の端で立ち止まり、信号が変わるのを待った。
車が何台か通り過ぎていく。
蓮はまだ算数の問題について話していたけれど、途中で別の話題に変わった。
『そういえば、今日の給食、おいしかったな』
「また給食の話?」
『だって、ハンバーグだよ?』
「もう食べ終わったでしょ」
『食べ終わっても、おいしかったことは変わらないからね』
「はいはい」
『龍斗はどうだった?』
「普通においしかったよ」
『でしょ?』
「何でそこで得意げになるの?」
『同じ意見だから』
「別に珍しくもないでしょ」
『まあね!』
蓮は楽しそうに笑った。
信号が青に変わった。
俺たちは左右を確認してから、横断歩道を渡った。
渡り終えると、またいつもの帰り道が続いていた。
今日一日を振り返ってみても、特別な事件があったわけではない。
朝、教室に入って、蓮と話した。
先生の話を聞いて、席替えをした。
新しい席で授業を受け、葛西さんと少し話した。
給食を食べて、掃除をして、午後の授業を受けた。
帰りの会が終わり、蓮と一緒に帰っている。
ただ、それだけだった。
けれど、席替えをしたことで、いつもの一日の中に小さな変化が生まれていた。
隣に座る人が変わる。
授業中に交わす言葉が少し増える。
何気ない会話で笑うことがある。
そんなことが積み重なって、学校で過ごす時間が少しずつ変わっていく。
転校してきたばかりの頃は、ここまで自然に毎日を過ごせるようになるとは思っていなかった。
知らない教室。
知らない友達。
初めて聞く名前。
最初は、何をするにも周りの様子を気にしていた。
でも、今は蓮とくだらない話をしながら帰っている。
教室では葛西さんとも普通に話せるようになってきた。
明日もまた、同じように学校へ行く。
授業を受けて、友達と話して、休み時間には遊んで。
きっと、明日も特別なことは起こらない。
それでも、そんな毎日が続いていくことが、今は当たり前になりつつあった。
『龍斗、明日も一緒に行こうね!』
蓮が言った。
「うん。いつもどおりでしょ」
『そうだけど!』
「何なの?」
『一応、確認だよ!』
「何の確認なの?」
『明日もよろしくってこと!』
「はいはい。よろしく」
俺がそう答えると、蓮は満足そうに頷いた。
『よし!』
その様子に、また笑ってしまった。
俺たちは並んで歩き続けた。
席替えをした日も、こうしていつもの帰り道を歩いて終わっていく。
でも、明日教室に入ったときには、今日とは少し違う気持ちで自分の席に座れる気がした。
隣には葛西さんがいる。
前のほうには蓮がいる。
そんな新しい席での毎日が、これから少しずつ始まっていく。




