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3/8

新たなる出会いと別れ

桜は毎年咲く。でも、あの日の桜は一度しか見られない。


ランドセルは、思っていたより重かった。

中には教科書なんてほとんど入っていない。

それなのに肩へ食い込む感覚がある。

新品だからだろうか。

それとも、小学生になるという緊張のせいだったのか。

玄関で靴を履きながら、何度も肩紐を引っ張って位置を直す。


『ちゃんと前向いて歩くんよ?』


「うん。」


『返事だけは立派やね。』


「ちゃんと聞いてるって。」


母は笑った。

昔からよく笑う人だった。

その代わり、よく心配もする。


『ハンカチ持った?』


「持った。」


『ティッシュは?』


「ある。」


『名札は?』


「付いてる。」


今日だけで何回聞いただろう。

少し面倒くさい。

でも、これが母だった。

父はもう仕事へ行っている。

朝早く家を出る人だったから、入学式の日も顔を合わせることはなかった。


「行ってきます。」


『行ってらっしゃい。』


マンションを出る。

春の風が少し冷たい。

空は青く、雲は少ない。

歩道には桜の花びらが少しだけ落ちていた。

まだ満開。

歩くたびにランドセルが背中で揺れる。

なんだか自分だけ少し大人になったような気がした。


保育園へ通っていた頃とは歩く道が違う。

少し遠い。

途中には歩道橋がある。

今はまだ何とも思わない。

ただの歩道橋だ。


小学校が見えてきた。

保育園よりずっと大きい。

白い校舎。

広い運動場。

体育館。

遊具。

全部が大きく見える。


「すご……。」


自然と声が漏れた。

門の前には同じ一年生くらいの子どもたち。

みんなランドセルを背負っている。

色は黒と赤ばかり。

今みたいにカラフルじゃない。

親と写真を撮っている人も多かった。

俺も母に言われるまま校門の前へ立つ。


『笑ってー。』


笑えと言われても難しい。

緊張している。

結局、ぎこちない顔のまま写真は撮られた。

あとでアルバムを見るたびに思う。

もっと笑えばよかった。

いや、あの時はあれが精一杯だった。


昇降口へ入る。

新しい靴箱。

木の匂い。

少しワックスの匂いも混ざっている。

床は綺麗で、まだ誰も汚していない。

上履きを履く。

少し大きい。

母が、


『すぐ大きくなるから。』


と言って一つ大きいサイズを買ったからだ。

歩くたびに少しだけパカパカする。

教室は一階。

廊下には、

『入学おめでとう』

と書かれた紙がたくさん貼ってあった。

風船。

折り紙。

桜。

子どもが喜びそうな飾り付けばかり。


教室へ入る。

思っていたより広い。

黒板には大きく白い字で、

『にゅうがく おめでとう』

と書かれていた。


窓からは校庭が見える。

桜が風に揺れていた。


席を探す。

自分の名前。

あった。

真ん中くらいの席。

ランドセルを机の横へ掛ける。

保育園には机なんてほとんど無かった。

だから何となく嬉しい。

机の中を開けたり閉めたり。

椅子へ座ったり立ったり。

子どもなんてそんなものだった。


教室を見回す。

知らない子ばかり。

保育園が違う子も多い。

話しかけようとは思わない。

人見知りというほどではない。

でも、自分から話すタイプでもない。

向こうから来てくれたら話す。

そんな性格だった。


「おはようございまーす!」


先生が教室へ入ってきた。

三十代くらいだろうか。

若い女の先生。

名前はもう思い出せない。

でも、笑顔が多い先生だったことだけは覚えている。


『みんな、お席についてねー。』


教室が少し静かになる。

隣の席の男の子がそわそわしている。

前の席の女の子は窓の外ばかり見ている。

後ろではランドセルを開け閉めしている音。

みんな緊張している。

でも、それを隠すように落ち着きなく動いていた。

先生が一人ずつ名前を呼び始めた。


『──さん。』


『はい!』


元気な返事。

みんな声が大きい。

俺の番が来る。


『──。』


「……はい。」


思ったより声が小さかった。

先生は気にする様子もなく丸を付けていく。

入学式では校長先生の話を聞いた。

長かった。

とにかく長かった。

途中から足が痛くなった。

周りを見ると、同じように座り方を変えている子がいる。

少し安心した。

俺だけじゃない。

そんな小さなことで安心できた。


入学式が終わると、教室へ戻った。

先生から学校での過ごし方を聞く。

廊下は走らない。

人の話を聞く。

トイレの場所を覚える。

給食のこと。

掃除のこと。

一度にたくさん説明された。

正直、全部は覚えられなかった。

それでも、先生が話している間はちゃんと聞いているふりをした。


帰りの時間になった。


『今日はこれで終わりです。気をつけて帰ってね。』


「はい。」


初めての学校。

初めての教室。

初めての机。

初めての上履き。

たった一日なのに、すごく疲れた。

家に帰ると、母がすぐに聞いてきた。


『どうだった?』


「楽しかった。」


『友達できた?』


「まだ。」


『そっか。』


母は少し笑った。


「でも、明日も学校ある。」


『うん。明日もあるよ。』


その言葉がなんとなく嬉しかった。

次の日も学校へ行ける。

それだけで、少し楽しみだった。


翌朝。

新品のランドセルを背負う。

昨日より少しだけ慣れている。

靴を履く。

母に見送られる。


「行ってきます。」


『行ってらっしゃい。』


学校までの道を歩く。

昨日と同じ道。

歩道橋も同じ。

桜もまだ咲いている。

でも、昨日より少しだけ学校が近く感じた。


教室へ入る。

昨日と同じ席。

昨日と同じ机。

でも、昨日とは少し違った。

隣の席の男の子が先に来ていた。

目が合う。


『おはよう。』


「おはよう。」


それだけだった。

でも、昨日より一歩進んだ気がした。

朝の会が終わる。

授業が始まる。

国語。

ひらがなの練習。

先生が黒板に文字を書く。


『今日は「あ」を書いてみましょう。』


俺もノートに書く。

一画目。

二画目。

三画目。

上手く書けた。

先生が机の間を歩いてくる。

俺のノートを見る。


『綺麗に書けてるね。』


少し嬉しかった。

たったそれだけなのに、もう一度丁寧に書きたくなった。


算数では数字を習った。

一。

二。

三。

まだ簡単だった。

でも、先生が問題を出して、


『分かる人?』


と言うと、手を挙げるのには少し勇気がいった。

分かっている。

でも間違えたら嫌だ。

だから最初は手を挙げなかった。

隣の子が手を挙げる。

前の子も挙げる。

俺も少し遅れて手を挙げた。


『龍斗くん。』


「二。」


『正解。』


それだけで嬉しかった。

休み時間になる。

チャイムが鳴った瞬間、教室の空気が変わった。

椅子を引く音。

机を動かす音。

友達を誘う声。


『外行こうぜ!』


『鬼ごっこしよう!』


誰かが走って教室を出ていく。

俺も立ち上がった。

校庭へ出る。

広い。

やっぱり広い。

保育園の園庭とは全然違う。

何をしていいか少し迷っていると、昨日隣の席で挨拶した男の子が声をかけてきた。


『一緒に鬼ごっこする?』


「うん。」


それだけで仲間になった。

名前は覚えた。

でも、まだ「友達」という感じではない。

それでも、一緒に走った。


鬼から逃げる。

捕まる。

また逃げる。

ただそれだけ。

でも楽しかった。

チャイムが鳴る。


『戻ろう!』


みんな一斉に教室へ戻る。

俺も走った。

教室に戻ると先生が笑っていた。


『そんなに急がなくても大丈夫だよ。』


「はい。」


席へ座る。

息が少し切れている。

でも、嫌じゃなかった。

それから何日か経つと、少しずつ話す子が増えていった。

名前を覚える。

顔を覚える。

どこから来たのか聞く。

好きな遊びを聞く。

誰かが持っている消しゴムを見て、


『それ何?』


と聞いたりもする。

俺も少しずつ学校のことが分かってきた。

教室の場所。

トイレの場所。

給食室から給食が運ばれてくること。

休み時間に外へ行くこと。

チャイムが鳴ったら教室へ戻ること。

毎日同じことを繰り返しているようで、少しずつ違うことが起きる。

給食の日も楽しみだった。

給食当番になると、白い給食着を着る。

帽子もかぶる。

最初は少し恥ずかしかった。

でも、みんな同じだから気にならなくなった。


『今日カレーだ!』


誰かが叫ぶ。

教室が一気に明るくなる。

俺も嬉しかった。

給食を配って、席に座る。


『『『「いただきます!」』』』


みんなで食べる。

家とは違う。

同じものをみんなで食べる。

苦手なものが入っている子もいる。


『これ食べられない。』


『一口だけ食べてみたら?』


『無理。』


そんな会話も聞こえてくる。

俺は嫌いなものがあっても、できるだけ食べるようにしていた。

母から、


『好き嫌いしないようにね。』


と言われていたからだ。

給食が終わると掃除。

最初は掃除のやり方もよく分からなかった。

ほうきを持つ。

床を掃く。

でも、どこからどこまでやればいいのか分からない。


『こっちも掃くんだよ。』


「ここ?」


『そうそう。』


先生に教えてもらった。

それだけで掃除が少し楽しくなった。

掃除が終わると、また授業。

そして帰りの会。


『『『「さようなら。」』』』


教室を出る。

靴を履き替える。

ランドセルを背負う。


帰り道。

朝よりランドセルが重い。

でも、入学初日ほどではない。

学校に慣れてきたからかもしれない。

家へ帰ると、ランドセルを玄関に置く。

母から、


『宿題は?』


と聞かれる。


「ある。」


『じゃあ、先にやっちゃおう。』


「えー。」


『後でやると忘れるよ。』


仕方なく机へ向かう。

宿題はひらがなの練習だった。

何度も同じ文字を書く。

最初は面倒だった。

でも、綺麗に書けると少し嬉しい。


宿題が終われば自由時間。

テレビを見る。

ゲームをする。

外へ遊びに行く。

小学校に入っても、家に帰ればまだ普通の子どもだった。


ある日の休み時間。

いつものように校庭へ出ようとすると、何人かの男の子が教室の後ろに集まっていた。


『今日、鬼ごっこじゃなくてドッジボールしようぜ。』


『いいよ。』


「俺も入る。」


『いいよ。』


気づけば、自然に輪の中へ入っていた。

名前を呼ばれるようになった。

一緒に遊ぶようになった。

帰り道に途中まで一緒に歩く日もあった。

少しずつだった。

急に親友ができたわけではない。

ただ、昨日まで知らなかった子が、今日は一緒に遊ぶ相手になっている。

それが小学生の世界だった。


春が過ぎて、梅雨が来た。

雨の日は校庭で遊べない。

休み時間になると、みんな教室に残る。

トランプをする子。

絵を描く子。

机の周りで話す子。

俺は友達と話しながら時間を過ごした。

外で遊べないのは少し残念だった。

でも、教室で話すのも悪くなかった。


窓の外を見る。

雨が降っている。


『今日ずっと雨かな。』


「たぶん。」


『帰るときも降ってたら嫌だな。』


「傘あるから大丈夫。」


『そういう問題じゃないんだよ。』


「じゃあ何?」


『靴が濡れる。』


「それは嫌だな。」


二人で笑った。

そんなくだらない会話が増えていった。


六月になると、学校にもかなり慣れていた。

朝、教室へ入ると、


『おはよう!』


と言われる。


「おはよう。」


それが普通になった。

名前を呼ばれることも増えた。

休み時間になると、


『今日何する?』


と聞かれる。

俺が答える。


「鬼ごっこ。」


『また?』


「楽しいから。」


『じゃあやろう。』


そんな毎日だった。


体育も始まった。

体操服に着替えて、体育館や運動場へ行く。

走る。

跳ぶ。

ボールを使う。

俺は体を動かすのが嫌いではなかった。

特別に運動が得意というわけでもない。

でも、みんなで競争するのは楽しかった。

かけっこでは負けると悔しい。

勝つと嬉しい。

それだけだった。


ある日、体育でリレーをした。

チームに分かれて走る。

自分の番が来るまで待つ。


『龍斗、頑張れ!』


友達が声をかけてくれた。

俺は少し緊張した。

名前を呼ばれるだけで、なんだか頑張らないといけない気がした。


『次!』


バトンを受け取る。

走る。

前の子を追いかける。

息が苦しい。

それでも走る。

最後まで走って、次の子へバトンを渡す。


『速かったじゃん!』


「そう?」


『うん。』 


嬉しかった。

家に帰ってから母にも話した。


『それは良かったね。』


「うん。」


そんな小さな出来事を、俺は家でよく話していた。


朝から、少しだけ体がおかしかった。

起きた時から体が重い。

布団の中にいる時は、ただ眠いだけだと思っていた。

母に起こされて、いつものように顔を洗う。

鏡を見る。

自分では特に変わったところはない。

少し眠そうな顔をしているくらいだった。


『龍斗、朝ご飯できたよ。』


「うん。」


台所へ行く。

いつもの朝ご飯。

ご飯を食べる。

でも、あまり食欲がなかった。


『どうしたの?』


「なんか、あんまりお腹空いてない。」


『珍しいね。』


「昨日食べすぎたのかも。」


適当に答えた。

母は少し心配そうに俺を見る。


『体調悪くない?』


「大丈夫。」


そう答えた。

その時は、本当に大丈夫だと思っていた。

学校へ向かう。

ランドセルを背負う。

歩く。

いつもの道。

歩道橋。

信号。

学校。

何も変わらない。

ただ、いつもより少しだけ足が重かった。


教室に入る。

友達と挨拶をする。


『おはよう!』


「おはよう。」


席に座る。

朝の会が始まる。

先生が話している。

俺は黒板を見る。

でも、なんとなく頭がぼんやりする。

眠い。

昨日、夜更かししたわけでもない。

なのに眠い。


一時間目が始まる。

国語だった。

教科書を開く。

先生が黒板に文字を書く。

俺もノートに写す。

いつもなら普通にできることだった。

でも、その日は文字が少し見づらかった。

黒板の文字がぼやける。

目をこする。

もう一度見る。

少しだけ見える。

それでも、何かがおかしい。

体が熱い。

最初は教室が暑いのだと思った。


窓を見る。

開いている。

風も入っている。

なのに暑い。

額に手を当てる。

熱い気がする。

でも、小学生の俺には、それがどれくらいなのか分からない。


授業は続く。

先生の声が少し遠く聞こえる。

ノートに文字を書く。

手が重い。

一文字書く。

少し休む。

また一文字書く。

そんなことをしていた。


二時間目。

算数。

黒板に問題が書かれる。

先生が説明している。

いつもなら算数は嫌いじゃない。

むしろ好きな方だった。

でも、その日は問題が頭に入ってこない。

数字を見ても、何を計算すればいいのか分からない。


「……なんだこれ。」


小さく呟く。

自分でもおかしいと思った。

先生がこちらを見る。


『龍斗くん、どうしたの?』


「なんか……ちょっと気持ち悪い。」


先生が近くまで来る。


『大丈夫?』


「うん……たぶん。」


先生が俺の額に手を当てた。

その瞬間、先生の表情が少し変わった。


『ちょっと熱いね。』


「そう?」


『保健室に行こうか。』


「……うん。」


立ち上がる。

でも、立った瞬間。

足元がふらっとした。


「……あれ。」


先生がすぐに腕を支えてくれた。


『ゆっくりでいいよ。』


「大丈夫。」


そう言ったけど、全然大丈夫じゃなかった。

教室を出る。

先生と一緒に廊下を歩く。

いつもなら何とも思わない廊下が、妙に長く感じた。


保健室に着く。

先生が保健室の先生に事情を話す。


『授業中から体調が悪くなったみたいで。』


保健室の先生が俺を見る。


『ちょっと横になろうか。』


「はい。」


ベッドへ横になる。

布団をかけてもらう。

冷たい布団が気持ちよかった。

目を閉じる。

すぐに眠れそうだった。


しばらくして、熱を測ることになった。

体温計を脇に挟む。

待つ。

電子音が鳴る。

保健室の先生が体温計を見る。

そして、少し驚いた顔をした。


『……40.0℃。』


「……え?」


自分でも意味が分からなかった。

40℃。

そんな数字を、学校で聞くとは思わなかった。


『かなり高いね。』


「そんなに?」


『うん。お家の人に連絡しようね。』


俺はベッドに横になったまま、天井を見る。

40℃。

それだけ聞くと、急に自分がすごく具合の悪い人になった気がした。

でも、不思議と怖くはなかった。

眠かった。

とにかく眠かった。


昼前になった。

母が迎えに来るまで、俺は保健室で寝ていた。

途中で先生が何度か様子を見に来る。


『大丈夫?』


「うん。」


『お家の人が迎えに来るまで、ここで休もうね。』


「はい。」


目を閉じる。

また眠る。

しばらくすると、先生から声をかけられた。


『龍斗くん、お母さんが来たよ。』


「……うん。」


目を開ける。

少しだけ頭がすっきりしていた。

熱が下がったわけではない。

でも、さっきよりは動けそうだった。

母が保健室に入ってくる。


『龍斗、大丈夫?』


「うん。」


『40℃もあったんだって?』


「そうらしい。」


『らしいって……。』


母が心配そうに俺を見る。

保健室の先生から話を聞いている。

俺はベッドから起き上がった。


「帰れる。」


『大丈夫?』


「歩ける。」


母は少し迷ったようだった。

でも、保健室の先生と話して、帰る準備をすることになった。

荷物を持つ。

ランドセル。

いつもなら背負えば何とも思わない。

今日は重い。

ものすごく重い。


「重い……。」


『持とうか?』


「大丈夫。」


ランドセルを背負う。

保健室の先生に挨拶をする。


「ありがとうございました。」


『気をつけて帰ってね。』


母と一緒に廊下へ出る。

少し歩く。

廊下を進む。

一歩。

また一歩。

学校の中はいつも通りだった。

教室から子どもたちの声が聞こえる。

授業をしている声。

廊下を歩く音。

でも、俺には全部が遠く感じた。

少し歩いたところで、急に足が止まった。


「……。」


前へ進めない。

母が振り返る。


『龍斗?』


「ちょっと待って。」


壁に手をつく。

それでも足に力が入らない。

壁にもたれかかる。


「……なんか、無理。」


母が慌てる。


『大丈夫?』


「分かんない。」


その場から動けなくなった。

母が俺の肩を支える。

でも、ランドセルも重い。

頭も重い。

目の前がぼんやりする。

その時、廊下の向こうから先生が走ってきた。


『龍斗くん!』


さっきまで教室にいた先生だった。

俺が途中で止まっているのを見つけたらしい。

先生がすぐに近くまで来る。


『大丈夫?』


「……歩けない。」


『無理しなくていいよ。』


先生がランドセルを外してくれる。

肩が軽くなる。

それだけで少し楽になった。


『もう一度、保健室に戻ろう。』


「……はい。」


先生に支えてもらいながら、ゆっくり戻る。

来たばかりなのに。

また保健室。

ベッドへ戻る。

横になる。

母も隣にいる。


『無理して帰ろうとしなくてよかったね。』


「うん。」


保健室の先生がもう一度様子を見る。


『もう少し休んでから帰りましょう。』


「はい。」


目を閉じる。

体が布団に沈んでいく。

眠い。

さっきからずっと眠い。

俺はそのまま眠ってしまった。


夢を見た。

どこかの坂道に立っていた。

周りには誰もいない。

空も暗い。

俺は坂道の上を見ていた。

何かがある。

最初は小さく見えた。

でも、だんだん大きくなってくる。


ゴロゴロ。


音がする。

地面が揺れる。


「……何?」


坂の上から、大きな岩が転がってきた。

最初はゆっくりだった。

でも、どんどん速くなる。


ゴロゴロ。


ゴロゴロ。


大きい。

近づいてくる。

俺は逃げようとする。

でも、足が動かない。


「待って。」


一歩下がる。

動かない。

もう一歩。

やっぱり動かない。

岩が迫ってくる。


「やばい。」


逃げたい。

でも、足が地面にくっついているみたいだった。

岩がどんどん大きくなる。

目の前まで来る。

俺は必死に逃げようとする。


「動け!」


それでも動かない。

岩がすぐそこまで迫ってきた。

怖い。

もう間に合わない。

そう思った瞬間。


「うわっ!」


目が覚めた。

保健室だった。

息が少し荒い。

天井が見える。

白い天井。

隣には母がいる。


『起きた?』


「……夢見た。」


『怖い夢?』


「うん。」


『大丈夫だよ。』


母が頭を撫でる。

俺は少しだけ安心した。

夢の中の岩は、まだ頭の中に残っていた。

でも、もうここにはない。

保健室の静かな音だけが聞こえる。


時計を見る。

少し時間が経っていた。

体はまだ重い。

それでも、さっきより少しだけ楽だった。

頭のぼんやりも少なくなっている。

保健室の先生が来る。


『少し顔色が良くなったね。』


「ほんと?」


『うん。でも今日は早く帰って、ゆっくり休もうね。』


「はい。」


今度は、ちゃんと歩けそうだった。

母と一緒に保健室を出る。

先生にも挨拶する。


『また元気になったら学校に来てね。』


「はい。」


廊下を歩く。

今度は止まらない。

ゆっくりだけど、歩ける。

昇降口へ行く。

靴を履き替える。

外へ出る。

朝と同じ学校。

朝と同じ道。

でも、朝とは全然違う。

ランドセルは母が持ってくれている。

俺は母の隣を歩く。


「今日は疲れた。」


『そりゃ疲れるよ。40℃もあったんだから。』


「40℃ってすごい?」


『すごいよ。』


「じゃあ、俺すごい?」


母が少し笑った。


『そういう意味じゃないよ。』


「そっか。」


俺も少し笑った。

家に着く。

靴を脱ぐ。

そのまま布団へ向かう。

もう眠かった。


母に、


『今日は何もしなくていいからね。』


と言われる。


「うん。」


布団に入る。

目を閉じる。

今度は怖い夢を見ないといいな。

そんなことを考えながら、俺は眠った。


七月。

夏が近づいてきた。

教室の窓を開けると、暑い風が入ってくる。

先生が、


『暑いねー。』


と言う。

みんなも、


『暑い!』


と答える。


休み時間に外へ出ると、すぐに汗をかく。

それでも遊ぶ。

鬼ごっこ。

ドッジボール。

遊具。

暑いからやめようと思っても、誰かが、


『もう一回やろう!』


と言えば、結局また走る。

子どもは暑さより遊びたい気持ちが勝つ。

夏休みが近づくと、みんな浮かれていた。


『夏休み何する?』


「ゲーム。」


『ずっと?』


「たぶん。」


『それだけ?』


「外にも行く。」


『どこ?』


「知らない。」


そんな話をしながら、終業式の日を迎えた。

朝からいつもより教室が騒がしい。

先生も少し笑っている。


『今日が終わったら夏休みです。』


その言葉にみんな喜ぶ。

俺も嬉しかった。

終業式が終わり、通知表をもらった。

先生から一人ずつ渡される。

俺も受け取った。

家に帰る。

母に見せる。


『頑張ったね。』


「うん。」


父にも見せた。

父は通知表を見てから、


『学校はどうや?』


と聞いた。


「楽しい。」


父は少し笑った。


『それならいい。』


夏休みが始まった。

朝は少し遅くまで寝る。

起きたら朝ご飯。

そのあとはゲーム。

昼ご飯を食べる。

午後は外へ遊びに行く。

夕方に帰る。

そんな毎日だった。

学校がないのは楽だった。

でも、何日かすると少しだけ学校が恋しくなった。


友達と遊びたい。

鬼ごっこをしたい。

教室でくだらない話をしたい。

そう思うこともあった。

夏休みの終わりが近づくと、


『学校始まるの嫌だな。』


と言う友達もいた。

俺はそこまで嫌ではなかった。


「友達に会えるから。」


そう言ったら、


『確かに。』


と返ってきた。


二学期が始まる。

久しぶりの学校。

教室へ入る。


『おはよう!』


「おはよう。」


友達がいる。

先生がいる。

机がある。

夏休み前と同じ。

それがなんとなく嬉しかった。


九月になると、少し涼しくなった。

体育の時間も動きやすくなった。

運動場で走る。

夏よりずっと楽だった。


休み時間には相変わらず遊ぶ。

俺たちの中では、鬼ごっこが一番多かった。

ある日、アスレチックのような遊具を使って遊んでいると、誰かが言った。


『ここを鬼ごっこのコースにしようぜ。』


「いいね。」


『上を通って、下から回って、あそこまで行ったらセーフ。』


「分かった。」


ルールを決める。

鬼が一人。

みんなで逃げる。

遊具を上って、降りて、走る。

普通の鬼ごっこより難しい。


『待て!』


「無理!」


『そっち行ったぞ!』


「こっち!」


みんなで叫ぶ。

捕まって、また逃げる。

先生が遠くから、


『危ない遊び方はしないでねー!』


と声をかける。


『はーい!』


返事だけは全員立派だった。

そんな日々を過ごしていた。

学校はすっかり日常になっていた。

朝起きて学校へ行く。

友達と話す。

授業を受ける。

休み時間に遊ぶ。

給食を食べる。

掃除をする。

帰る。

家で宿題をする。

遊ぶ。

寝る。

毎日がその繰り返しだった。


そして、十月が近づいた頃。

家で夕食を食べていた。

母が少し静かだった。

いつもなら学校の話を聞いてくる。

でも、その日はなかなか話さなかった。

父もいた。

俺はご飯を食べながらテレビを見ていた。

しばらくして、母が口を開いた。


『龍斗。』


「うん?」


『ちょっと話があるんだけど。』


何か悪いことをしただろうか。

宿題を忘れたとか。

学校で何かあったとか。

そんなことを考えた。

でも、母は怒っていなかった。

父も黙っている。


『お父さんのお仕事の都合でね。』


そこで一度、母が言葉を止めた。


『引っ越すことになったの。』


「引っ越す?」


『うん。』


「どこに?」


父が答えた。


『少し遠いところ。』


俺は箸を止めた。

遠いところ。

それだけ聞いても、まだ意味がよく分からなかった。


『だから、学校も変わることになる。』


「学校?」


『そう。今の学校から、別の学校へ行くことになるの。』


俺はしばらく黙った。

頭の中に、今の学校が浮かんだ。

教室。

自分の机。

校庭。

遊具。

給食。

先生。

そして友達。


「友達は?」


母が少し困った顔をした。


『友達とは、会えなくなるね。』


「……そっか。」


それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。

四月には誰も知らなかった。

でも今は違う。

毎日会う友達がいる。

休み時間に一緒に遊ぶ友達がいる。

帰り道に話す友達がいる。

学校へ行けば会えるのが当たり前だった。

それが、なくなる。

そのことを考えると、胸の奥が少し重くなった。


「いつ?」


『もうすぐ。』


「そんなにすぐ?」


『うん。十月から新しい学校になる。』


十月。

もうすぐだった。

俺はご飯を食べながら、何も言わなくなった。

母が、


『寂しい?』


と聞く。

俺は少し考えた。


「……寂しい。」


初めて、自分からそう言った。

母は何も言わず、俺の頭を撫でた。

その夜、布団に入ってもなかなか眠れなかった。


いつもの学校を思い出す。

教室の窓。

黒板。

自分の机。

ランドセルを掛ける場所。

休み時間の校庭。

友達と走った場所。

給食を食べた席。

全部、当たり前だと思っていた。

明日も学校へ行く。

そう思っていた。

でも、あと少しで終わる。


次の日。

学校へ行く。

いつも通りだった。


『おはよう!』


「おはよう。」


友達が笑っている。

俺も笑う。

先生が来る。


『みんな席についてね。』


授業が始まる。

何も変わらない。

でも、俺の中だけが少し違った。

休み時間。

いつものように友達と外へ出る。


『今日も鬼ごっこする?』


「する。」


『じゃあ俺が鬼な。』


「いいよ。」


走る。

笑う。

捕まる。

逃げる。

いつも通り。

それなのに、少しだけ特別に感じた。

俺は何も言わなかった。

引っ越すことを、まだ友達には話していなかった。

言ったら本当に離れる気がしたからだ。


昼休みも遊んだ。

放課後も少し話した。

帰る時間になる。


『また明日な。』


「うん。また明日。」


そう答える。

家へ帰る。

ランドセルを置く。

いつものように一日が終わる。

でも、残された時間は少なかった。


十月。

俺は、この学校を離れることになった。


四月。

桜の下で新品のランドセルを背負っていた俺は、ただ小学生になったことが嬉しかった。

それから半年。

学校は、いつの間にか「俺の日常」になっていた。

友達と笑うこと。

休み時間に走ること。

先生に怒られること。

給食を食べること。

宿題をすること。

家へ帰ること。

全部が当たり前だった。

その当たり前が、終わる。


引っ越しの準備が少しずつ進んでいく。

部屋の中に段ボールが増えていく。

俺はそれを見ながら、少しずつ実感していった。

本当に行くんだ。

もう、この学校には戻ってこない。

そう思うと寂しかった。

でも、まだ子どもだった俺には、「これから先」のことを深く考えることはできなかった。

新しい学校。

新しい教室。

新しい友達。

それがどんな場所なのか。

どんな人に出会うのか。

俺にはまだ分からない。

ただ一つ分かっていたのは、今まで毎日見ていた景色が、もうすぐ変わるということだった。


桜の咲く頃に始まった小学校生活。

そこから半年。

短かったような、長かったような。


俺の最初の学校生活は、十月の転校を境に、別の場所へ続いていくことになった。

第三話を読んでいただき、ありがとうございます!


今回は、新しい環境での出会いと、これまでの日々との別れを描きました。

これから龍斗の周りには、少しずつ新しい人たちが増えていきます。


次回も、龍斗の日常をゆっくり見届けてもらえたら嬉しいです。

これからもよろしくお願いします!

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